「名人の上を見聞きて、及ばぬ事と思ふは、ふがひなきことなり。名人も人なり、我も人なり、何しに劣るべきと思ひて、一度打向へば、最早その道に入りたるなり。十有五にして学に志すところが即ち聖人なり。後に修行して聖人になり給ふにはあらず。」と、一鼎申され候。初発心時弁成正覚ともこれあるなり。
(名人のことをいろいろと見聞きして、自分はとうてい及ばないなどと考えるのは、ふがいないことである。名人も人、われも人、何の劣ることがあろうかと、一度思い立って立向えば、もはや、その道に入ったものといえよう。孔子は十五歳ほどの年少で学問の道に志を立てたところが聖人なのである。いろいろと修業を積むことによって聖人になられたのではない。-と石田一鼎もいっておられる。
“最初に志を立てた時に、正しい悟を得ることができる”ともいわれている。)
<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
思い立ったが吉日
遅い、早いはありません。
孔子のくだりは、「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に從えども、矩を踰えず。」と続きます。
ここだけなら聖人君子の生き様です。
しかし孔子は一方で、「朝に道を聞けば夕に死すとも可なり。」とも言います。
進むべき道を探し続けた苦難の人生でもありました。
「朝に道を聞く」とは、人としての真実の道を聞いて悟るということですが、これが今日の言葉にある「最初に志を立てたとき」とおなじ意味と捉えられます。
自らの人生をその道に投入する心が決まれば、苦難はあるにしても、その道を全うできるでしょう。
いかに生きるか
考え抜いて決める
これが人生を左右する要点
あの人のようになりたいという憧れから生じる動機は長続きしません。
あの人のような存在になりたいという思いなら長続きするでしょう。
その存在が周囲にどういう影響を与えているのか、どういう役割を担っているかが焦点になっているからです。
だからこそ、名人を敬って注目するより、自らその道に入ってしまうことです。
思い立ったが
まさに「吉日」
一人一人が世の片隅を照らす存在になれば
国全体が輝きます
もう一度生まれ出ことになっても
やはり日本で生まれたい
そう思える国づくりこそ
私たちの「道」であると確信します