季康子問う、仲由は政に従わしむべきか。子曰わく、由や可なり。政に従うに於て何か有らん。曰わく、賜は政に従わしむべきか。曰わく、賜や達なり。政に従うに於て何か有らん。曰わく、求は政に従わしむべきか。曰わく、求や藝あり。政に従うに於て何か有らん。
(季康子が尋ねた。
「仲由(子路)は政治に当たらせることができましょうか」
先師が答えられた。
「由は決断力があります。政治に当たるのに問題はありません」
「賜(子貢)は、どうでしょうか」
先師が答えられた。
「賜は何事にも通達しています。政治に当たるのに問題はありません」
「求(冉有)は、どうでしょうか」
先師が答えられた。
「求は多芸多能です。政治に当たるのに問題はありません」)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
魯の国の大夫である季康子が、三人を役人に登用しようかと孔子に問うている場面です。
孔子は三人の力量を認めており、それぞれの特徴や強みとともに推薦しています。
この意味は、各人の能力を発揮できる仕事内容、つまり適材適所で用いれば全く問題なく政を担えるということです。
さらに言うと、用い方次第ですよ、いうことを暗に伝えています。
孔子としては弟子たちをしっかり育ててきたという自信があるのでしょう。
弟子たちはその修養の中で磨かれ、それとともに、徐々に一人ひとりの特性が形作られていきました。
結果を記した “ 論語 ” を読めば、弟子たちの特徴や能力はわかりますが、そこに至るまでには様々な出来事や数多くの教え、経験からの学びがあったに違いありません。
揉まれることによってこそ
人は自らの能力を得られる
人は、生まれたときから、段階的に様々な能力を身に付けていきます。
それら多くの能力をザルに入れ、揺すり、最後に残ったものがその人の特徴、特性となります。
一人ひとりが、その中核的能力を社会の中で発揮することで、自らを輝かせられ、また社会へ良い影響を与えることができるでしょう。
わたしが新社会人になろうとしていた40年ほど前、母親が何気なく「お前は研究職に向いているような気がする」と私に言いました。
そのとき私は(そんな地味な道ではなく、大海に飛び込み、大胆に経済社会で羽ばたいていきたい)と心の中で反発、否定していました。
しかし今、東洋古典や経営面の数値などを深掘りし、何かの真理を見出そうとしている自分がいます。
人生は
未見の我に出会う旅
自分の心が良い反応を示した領域には
思い切って飛び込むこと
そこで揉まれることで
自分の得意領域が得られ
自らの天命に近づくことができる