赤子の一啼一咲は、皆天籟なり。老人の一話一言は、皆活史なり。〔晩録二一四〕
(赤ん坊の泣き笑いは、すべて天然自然のもたらす素晴らしい音楽である。老人の話や言葉は、すべて経験を物語る活きた歴史である。)
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
小学生のとき、大人の話を聞くのが好きでした。
堤防で釣りをしていると、知らないおじさんが話しかけてきたりします。
大人としては、親の立場として自分の子には話しづらいことも、他人の子ならどうでも良いだろうという気持ちもあったのでしょう。
ところが、そういう話こそ面白いわけです。
中には子供が聞いてはいけないような話もありましたが、総じて興味深いものでした。
社会人として仕事をし始めると、利益を生むには、効率をよくするにはなどと、常識的な内容や学んだ知識を用いて議論したり、試行錯誤したりしたものです。
しかし、それらは既存の客観的な知識やノウハウであり、いわゆる二次情報でしかありません。
必要なものも沢山ありますが、数十年前には優れたものも、現代ではもはや充分な効果を生み出す働きはありません。
つまり、当時の私は、残念ですが、
一所懸命に平均という世界の中に、自らを埋もれさせようとしていたわけです。
新しい有効な手法や考え方は
常に主観から生まれます。
誰も知らない一次情報だからです。
ただ、自分の頭の中だけで生み出そうとすると、十年どころか百年以上かかるかもしれません。
よって、多くの経験を積んだ人から、多様で主観的な話を聞くことが賢明となります。
「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」
(ビスマルク:ドイツ帝国の初代宰相)
また、聞くだけに留まらず、その話を自分で考えてまとめ、自らの知恵にせねば役に立ちません。
「温故知新」(論語)
新しいことというのは
古典の知恵を煮詰めることによって得られる
<田口佳史氏 月刊致知 令和四年八月号より>
古典は、いつまでも輝きを失いません。
思うに、時代の流れはどうやら
ごく普通の人々の経験を知恵に昇華させ
人類のために活用せよ言っているようです。
近年の時代の流れは急であり
主だった知識や客観的な二次情報は
インターネットで検索できるようになりました。
しかし、もはや知恵とは言えません。
価値がそれほど高くない情報というものです。
これからの時代は
多くの先人から一話一言を聞き
そのような主観の塊といえる一次情報から学ぶことこそが
人生を切り開く鍵だと伝えてくれているようです。