古の善く道を爲むる者は、以て民を明らかにするに非ず。將に以て之を愚にせんとす。民の治め難きは、其の智多きを以てなり。智を以て國を治むるは國の賊。智を以て國を治めざるは國の福。此の兩者を知るときは亦た楷式なり。能く楷式を知る、是れを玄德と謂う。玄德は深し、遠し。物と反せり。乃ち大順に至る。
(昔のよく道をわきまえた支配者は、民の知能を高めようとはしない。民をなるべく愚かなままにしておこうとする。
人民が治めにくいのは、彼らの知恵がたくさんあるからである。だから民の知能を高める、そういったやり方をとるのは、かえって国を損なうものである。
智恵でもって国を治めない。逆に民を愚かにしてやろうというやり方、これは国にとっての幸いである。
この知恵で治めるか、あるいは民を愚かにするか、この正反対の二つの道を知るならば、これは天下を治めるべき法則を知ったことになる。
この法則を知るということ、これは言い換えれば、神秘の徳と言い換えてもよい。この神秘なる徳は、奥が深い、このうえもなく遠大である。それは万物とともに、いちばん根本のところに立ち返ることでもある。
もとのところに立ち返るということは、すなわち完全なる随順、自然のままに従うということになる(そうなれば、国家の統治というものは天体の運行、あるいは四季の移り変わり、それと同じように規則正しくすんなりといくであろう)。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
今日の言葉は
人民を愚かにする
人民に知恵を与えない
人民が賢くならないようにすること
人民の
知への探求心や成長への欲を押し潰すこと
それが国を治める幸いな策
と捉えられます
出典書の解説者によれば、古の為政者、特に独裁者にとって、この教えは極めて魅力的に映ったとのこと。
そのため、秦の始皇帝の時代は、書物を焼却処分したり、政治批判者を殺害したりし、許されるのは役人から法律を学ぶことだけという状況だったようです。
現代を生きる私たちは
このような為政者に対して
頑として反論するでしょう
しかし今世紀
同じような場所で
同じような政策をとる国がある
これも事実
なぜでしょう
人類は一切進歩していないのでしょうか
18世紀から19世紀にかけて、農業革命、産業革命、そして20世紀から現代に起きている情報革命、私たちが使う道具は飛躍的に便利になりました。
しかし
“ 心 ” についてはどうでしょう
“ 心 ” は進歩したのでしょうか
今後、人類社会において、今まで高まってきた利便性は逆に損なわれてくるような気がします。
昔、世界の大半の人々は農業に従事していたでしょう。
それに対して今後は、世界の大半の人々がパソコンを持って歩く姿が日常の風景になりそうです。
普通に考えれば、さらなる食糧危機が訪れるのは明白です。
果たして私たちは
賢くなっているのでしょうか
政治家や起業家の口から出る言葉は
日に日に洗練されていき
美しく聞こえてきます
他方聞く側は
それらの言葉が
単なる知識の寄せ集めで
言葉の脆さや薄っぺらさを
見破る力を持ち始めています
加えて
フェイクニュースやデマ
詐欺や詭弁の類も氾濫しており
もはや説得力という概念は
過去の遺物になりそうです
わたしたちの “ 本心 ”
それは何なのでしょう
それを考えるとき
一人ひとり
当の自分さえ
“ 本心 ” の居所が
わかっていないことに気づかされます
“ 本心 ” と “ 言葉 ” の乖離が
大きくなってきています
知識の寄せ集めの言葉が
世間を左右する社会
それは決して
幸福ではないはず
それは
秦の始皇帝の時代と
大差ない状態
私たちは
自らの “ 本心 ” に
もっと目を向けるべきでしょう