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COLUMNSブログ「論語と算盤」

自分に犯す罪

2024年6月18日

大久保道古名花の評判の事 道古申し候は、「末世になりて名人これなしと、皆人申す事に候。某は心得申さぬ儀と存じ候。仔細は、牡丹、芍薬、つゝじ、椿などの花、末世ほど名花出来申し候。然れば、やはり次第出来申すものと相見え候。今にも、名人はやり申し候はゞ、諸道の名人出来申すべく候。世が末になりたるとて、人々思ひくだし、精を出さぬは無念の事に候。世に咎めはこれなく候。」と申し候由。

(大久保道古がいったには、

 「末世となって何ごとにも名人があらわれなくなったと人々はいうが、私はこの意見には賛成できない。ぼたん、しゃくやく、つつじ、つばきなどの花を見れば、世が末となればなるほど立派な花ができるようになっている。このことを見れば、人々の関心が集中しさえすれば、何ごとも立派なものが出てくることが理解できるであろう。もし、諸道の名人がもてはやされるようになれば、現在でも必ずや名人があらわれるにちがいない。

 世も末になったと思い込み、人々が意欲を失い、精を出さぬようになったのが残念なことである。世が末になったのが悪いのではない。人が精を出さなくなったのにこそ罪がある。」と。)

<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

 

 

昔も今も

「世も末」と

人々は嘆く

 

 

 

 

しかし、その本質は世の中のせいではないというのが今日の言です。

 

 

 

世の中が悪いのではなく、一人ひとりが評論家になってしまったのが問題なのでしょう。

 

 

 

 

 

自分で道を拓くことなく

のほほんと生きている

他人の真似をして

諦める

 

 

 

自分の乗った船が沈みつつある中

船首から沈むか船尾からかを

分析しているようなもの

 

しばらくすれば

自分自身が溺れてしまうことを

知ってか知らずか

 

 

 

 

 

自分の道に精を出さず、周囲の流れに身を任していると、人は悲観的になるものです。

 

そして「世も末」と口にするのです。

 

 

 

 

悲観主義は気分によるものであり
楽観主義は意志によるものである

~アラン(仏哲学者)~

 

 

 

 

教育が人としてのあり方を教え

 それに基づく活動ができる社会なら

  多くの人は自分の人生に

   意志を根付かせて

    生きていこうとするでしょう

 

 

他方

教育が社会のあり方に焦点を合わせてしまい

それが故に社会が硬直化し始めると

既知の社会構造の枠組みの中で

波風立てず無難に過ごそうと

考える人が増えます

 

 

 

全体の構造や習慣、そういう周囲の流れを利用しようと考えてしまう。

 

そこに自分の意志はありません。

 

徐々に悲観論者に近づいてしまいます。

 

 

 

 

 

社会や教育がどうであれ、24時間経てば新しい一日が生じます。

 

 

 

その新しい一日を

いかに生きるかが

大切なはず

 

 

 

 

 

周囲の流れに任せてダラリと生きて、「世も末」と嘆くのはお門違かどちがいです。

 

 

 

自分が自分の意志を持たず

さらに自分の生き様に

責任を持たなくなったこと

 

それは

本来の自分に対する

自らが犯した罪です