千布因幡殿、元朝に相果てられ候。隣に中野神右衛門住ひ居り候が、因幡殿死去の事承り、「大勢出入にて朝の支度出来兼ね申すべく候。この節にて候間、此方の節の膳、一通り隣へ遣はし候様に。」と申付け候へども、家来ども不吉の由にて、迷惑がり申し候。神右衛門以ての外叱り、「士は難儀の時貢が義理なり。此方の節は遅く候ても苦しからず候。」と、今出来立ち居り候料理、残らず遣はし申され候由。〔聞書第十一〕
(千布因幡殿が元旦に死去された。隣家に中野神右衛門(常朝の祖父)が住まっていたが、因幡殿の死去のことを聞くや「大勢の人々が出入りして朝食の支度もできるまい。このさい、わが家の祝いの料理を、すべて隣へさし上げるように。」といいつけられた。しかし家来たちは「縁起がわるい」などといっていやがった。
神右衛門はこれをきびしく𠮟りつけて「侍は人が難儀しているときにこそ、心を配るのが義理である。こちらの祝いの料理などは、遅くなってもさしつかえない。」と、でき上った料理を残らず隣へ持たせてやったという。)
<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
人が困っているときにこそ
救いの手を差し伸べる
親切心や思いやりからの行為ですが、人心掌握術としても有効と解説されています。
当主が亡くなるという一大事
多くの人がお悔やみに来きます。
表向きのお悔やみではなく、その家人の難儀を見定めて最も必要なものを差し入れるということは、この上ないありがたい善意と受け止められるでしょう。
気を付けたいのは、差し入れる人、この場合は中野神右衛門となりますが、その立場に相応しいかどうかです。
この話では、身分も同等かつ隣家、千布家側は何の違和感もなく受け取ることができます。
しかし、千布家よりも位が低い立場の者が差し入れることは不適切となります。
お互いの立場という
関係性を考慮した行為こそが
両者の心情を潤すことになるのです
僭越な行為と受け止められるようでは、拙い対応と言わざるを得ません。
この聞書第十一には、“ 自分の立場の認識が大切 ” という教訓もあります。
物事には相応、不相応があるとのことで、ある人が殿様から大きい御加増(領地や禄高を増やしてもらうこと)をいただくことになった話です。
あまりに大きすぎて、かえって差し障りがあるのではないか、返上されてはどうかと仲間が忠告します。
この忠告に対して当の本人は、それはごもっともと同意した上で、「ご主君からの御褒美を返上するようなことは、老臣、大役におられる方ならばともかく、自分などがしては身分不相応、かえってご無礼になるでありましょう。自分などは、ごくかけ出しのものですので、ただ有難くお受けした方がよいと考えます。」とのこと
的を射た
適切な判断です
もう一つの話は対照的です。
ある役人が軽はずみなことをしでかして、お家の門を閉ざせという罰則を受けることになったのですが、この行為に多少関係していた別の役人には何のお咎めもありませんでした。
この役人は、このままでは依怙贔屓のように受け取られかねないので、自分もお家の門を閉じますと上役に申し出ました。
殿様はこれを聞かれ、本人の思いのままにさせよとのこと。
これによって、この役人は自分の難を避けられたかもしれませんが、その年齢や身分から考えると、行き過ぎた行為、自己保全のために我を通そうとしただけの行為と判断されかねません。
親切心や遠慮
施す側と受ける側
お互いの立場や関係性を
良く見極めた対応が肝心です
置かれた場
自分さえ一つのコマとして
その全体像を客観的に鳥瞰して判断し
いかに振る舞うべきか
この判断を誤ると
単なる独りよがり
相手の顔に泥を塗る行為に
なりかねません
よくよく気を付けたいものです。