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COLUMNSブログ「論語と算盤」

道を想う

2022年1月14日

のたまわく、あしたみちけば、ゆうべすともなり。

(先師が言われた。

「朝に人としての真実の道を聞いて悟ることができれば、夕方に死んでも悔いはない」

 ※世の人がすべて道を聞いて道を行うようになれば、自分はいつ死んでもよいという説もある。)

<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

論語の中で、印象深く、共感できる言葉の一つです。

 

 

人は、どのように生きていくのが真実なのか、真実の道とはどういうものなのか、

 

21世紀になったいまも、その解はありません。

 

 

 現代ならさしずめ、自分らしく生きていくことが

生命を授かった人間としての正しい生き方ではないか、

 

それが人としての真実の生き方であろう、そんな意見が聞こえてくるでしょう。

 

 

確かに、それもそうでしょう。

 

 

しかしながら、紀元前500年という時代を生きる人にとって、

「自分らしく生きる」などという考えが生じるものでしょうか。

 

 

生きることはまさに命がけ、些細なことから殺し合いまで、

争いさえも日常の風景だったでしょう。

 

そんなとき、普通の人々とは違う観点から、

この世を洞察しようとしていたのだろうと察します。

 

それは孔子のみならず、ソクラテスやお釈迦様やキリストも

同じではなかったでしょうか。

 

 

そこで生じる疑問が、

人として生きる真実の道は何なのかということだと思います。

 

 

それを知りたい、それを知ることができたなら、もはや死しても悔いはない、

そういう人生の命題に対峙していたはずです。

 

 

 

現代の私たちは、

他者との相対的関係において「自分らしく生きる」ことを重視しますが、

 そういう相対的関係がない状態、つまり人として絶対的な真実こそが、

 本当の道であろうと思います。

 

 

個人的には、日常生活、仕事などにおいて、このまま死に向かうだけで良いのか、

何のために生まれてきたのだ、私には使命が与えられていないのか、

このような思いに駆られます。

 

 

そんなときは、いにしえからの教えを、2000年以上通用した生きる知恵を、

後世に伝承していくこと、

それを自らの使命と課し、人生を全うしようと考えます。

 

 

 

しかし、これも絶対的な価値観とは言えません。

 

 

 

 

人生は、他者と協力しながら、より良く生きることが大事であり、

周囲との関わりがあってこそのものである。

 

よって、相対的な概念の中で生きることが大切、という考え方もあるでしょう。

 

 

ただ、古の先哲の想いはそうでないように感じます。

 

 

 

 

比較対象が無限のように存在する現代を生きる私たちにこそ、

 

この命題を考える責務が課されていると思わずにはいられません。