老来、目昏けれども、猶お能く睹る。耳聾なれども、猶お能く聞く。苟くも能く聞睹すれば、則ち此の学、悪くんぞ能く之れを廃せんや。〔晩二六四〕
(年をとると目がよく見えなくなるけれど、それでもまだよく見ることはできる。耳も遠くなるけれど、まだよく聞き取ることはできる。かりそめにもよく見聞きできるのならば、この聖人の学問をどうしてやめることができようか。)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
生きることは学ぶこと
人は、自分の成長を感じられないままだと、気力や精気を失います。
若いときは体力面での成長もあるでしょうが、歳をとると “ 知と精神 ” の成長が必要です。
読書し、徳を高め、品格を身に付けようと意識して日々を過ごしている人は “ 知と精神 ” の成長に取り組んでいるのです。
他方、目線を変えると、一日中テレビやスマホで時間をつぶす人たちも多くいます。
時間をつぶすことは、一日をつぶすことであり、一週間、一ヵ月、一年をつぶすことにつながります。
終局的には、一生をつぶすのです。
両者の違いはどこからくるのか
それは
能動と受動の違い
幼いころ、あるいは思春期に至るまでのうち、「お前はどう生きるのか」という問いに対して真剣に考えた人は、自分の生き方を能動的に捉え、自分の道を見出して進んでいこうとします。
反対に、そういう問いを受けることなく、あるいは真剣に考えなかったら、そうはなりません。
成績を上げることに熱心
偏差値の高い学校に行きたい
人にうらやましがられる就職を望む
こんなステレオタイプの思考レールに素直に乗り
さらに不幸にもそのとおりに進んだら
残念ながらその後の人生は受動に染まります
我が国の人的ダイナミズムが
失われてきている理由の一つは
これでしょう
安定社会の実現のために、皆が守りに入ったこと自体が、人としての成長を阻んでいるようです。
守りを固めると、自ずと挑戦が無くなります。
すると、そこには意志や意欲が徐々になくなり、与えられたものへの条件反射のみとなります。
不幸にも、守りの体制が構築されてしまったのが今の日本といえます。
自らの “ 知と精神 ” の成長といわれても、もはや何もできません。
自らの成長を欲することなく、人口データを構成する一つの生命体として、ただ呼吸しているだけ。
それに対して
死ぬかもしれない挑戦の中で
必死でもがき
一つひとつ成長していく日々
意味ある人生
意義ある人生
それはどちら?
明白です
之を如何
之を如何と曰わざる者は
吾之を如何ともする末きのみ
(これはどうしよう、これはどうしようと常に自分に問いかけないような者は、私にもどうしようもない)
<孔子 論語 衛霊公第十五>
太陽の徳
広大なりといえども
芽を出さんとする念慮
育たんとする気力なきものは仕方なし
<二宮尊徳(金次郎)>
私の課題は
私自身を成熟させることだ
<ライナー・マリア・リルケ 独 詩人>
人生は
心一つの置きどころ
<中村天風>