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COLUMNSブログ「論語と算盤」

心を攻に置く

2024年5月17日

老来、目くらけれども、る。耳ろうなれども、猶お能く聞く。いやしくも能くぶんすれば、すなわの学、いずくんぞ能くれを廃せんや。〔晩二六四〕

(年をとると目がよく見えなくなるけれど、それでもまだよく見ることはできる。耳も遠くなるけれど、まだよく聞き取ることはできる。かりそめにもよく見聞きできるのならば、この聖人の学問をどうしてやめることができようか。)

<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>

 

 

 

 

生きることは学ぶこと

 

 

 

人は、自分の成長を感じられないままだと、気力や精気を失います。

 

若いときは体力面での成長もあるでしょうが、歳をとると “ 知と精神 ” の成長が必要です。

 

読書し、徳を高め、品格を身に付けようと意識して日々を過ごしている人は “ 知と精神 ” の成長に取り組んでいるのです。

 

 

他方、目線を変えると、一日中テレビやスマホで時間をつぶす人たちも多くいます。

 

時間をつぶすことは、一日をつぶすことであり、一週間、一ヵ月、一年をつぶすことにつながります。

 

終局的には、一生をつぶすのです。

 

 

 

両者の違いはどこからくるのか

 

それは

能動と受動の違い

 

 

 

幼いころ、あるいは思春期に至るまでのうち、「お前はどう生きるのか」という問いに対して真剣に考えた人は、自分の生き方を能動的に捉え、自分の道を見出して進んでいこうとします。

 

 

反対に、そういう問いを受けることなく、あるいは真剣に考えなかったら、そうはなりません。

 

 

 

成績を上げることに熱心

偏差値の高い学校に行きたい

人にうらやましがられる就職を望む

 

こんなステレオタイプの思考レールに素直に乗り

さらに不幸にもそのとおりに進んだら

残念ながらその後の人生は受動に染まります

 

 

 

 

 

我が国の人的ダイナミズムが

失われてきている理由の一つは

これでしょう

 

 

 

安定社会の実現のために、皆が守りに入ったこと自体が、人としての成長を阻んでいるようです。

 

守りを固めると、自ずと挑戦が無くなります。

 

すると、そこには意志や意欲が徐々になくなり、与えられたものへの条件反射のみとなります。

 

不幸にも、守りの体制が構築されてしまったのが今の日本といえます。

 

 

 

自らの “ 知と精神 ” の成長といわれても、もはや何もできません。

 

自らの成長を欲することなく、人口データを構成する一つの生命体として、ただ呼吸しているだけ。

 

 

それに対して

 死ぬかもしれない挑戦の中で

  必死でもがき

   一つひとつ成長していく日々

 

 

意味ある人生

意義ある人生

それはどちら?

 

明白です

 

 

 

 

 

これ如何いかん

之を如何とわざる者は

われ之を如何ともするきのみ

 

(これはどうしよう、これはどうしようと常に自分に問いかけないような者は、私にもどうしようもない)

<孔子 論語 衛霊公第十五>

 

 

 

太陽の徳

広大なりといえども

芽を出さんとする念慮ねんりょ

育たんとする気力なきものは仕方なし

 

<二宮尊徳(金次郎)>

 

 

 

私の課題は

私自身を成熟させることだ

 

<ライナー・マリア・リルケ 独 詩人>

 

 

 

人生は

心一つの置きどころ

 

<中村天風>