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COLUMNSブログ「論語と算盤」

生と死の繋がり

2024年7月20日

はくぎゅうしつ有り。これう。まどよりりてのたまわく、之をほろぼせり、めいなるかな。の人にしてしかも斯のやまいあるや、斯の人にして而も斯の疾あるや。〔雍也第六〕

(伯牛が不治の病にかかった。先師が見舞いに行かれて、窓から手を取り、なげいて言われた。

「惜しい人がなくなる。天命かなあ。それにしてもこのような立派な人物がこのような疾にかかるとは。このような立派な人物がこのような疾にかかるとは」

※伯牛、徳行の高い門人。姓は冉、名は耕、字は伯牛。

<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

 

有望で大切な弟子を不治の病で失う

 

孔子の悲痛な心情が伝わってきます

 

 

 

私たちは、生と死について何も知りません。

 

天の計らいでこの地上に生を与えられ、いま生きています。

 

同じように他の生命、動物、植物、魚、爬虫類、昆虫たちも生きています。

 

彼らと人間とは、単に脳ミソの大きさだけが違うのでしょうか。

 

 

 

例えば「自分のためだけに、自分の欲を満たすためだけに生きる人」がいたとします。

 

その人が死んだとき、地獄の閻魔大王の差配で小さな虫に生まれ変わらされ、あっという間に蜘蛛の巣にかかって食べられて死んだなどという話は聞きません。

 

 

 

そのせいなのか、「自分さえ良ければ」という人は一定数います。

 

そんな人ばかりの社会なら、道端に倒れた人がいても、だれも見向きもしないでしょう。

 

 

 

しかし幸いにも、いまの社会は人と人が助け合うことで成り立っています。

 

与えられた役割、仕事を一所懸命、しっかりこなした人が亡くなったとき、手厚く葬られるでしょう。

 

そこは、その人にお礼と悲しみを伝える場であり、あの世で穏やかに過ごしてほしという願いの場です。

 

心の中で、やがて自分もそこに行くからと、送り出す場です。

 

 

 

多くの人が、死んだ後には何か別の世界があると感じています。

 

身近な人が亡くなった後、何かの拍子で、その人がそばにいるような気がした、見守ってくれているような気がした、そんな体験をした人ならなおさらでしょう。

 

 

他方、「自分さえ良ければ」という人の世界は、この世での死とともに終わるでしょう。

 

それは、自分自身で分断しているからです。

 

 

 

私は

 生と死はつながっていると思います

 

それは

 一直線上かもしれませんし

  表と裏のような関係かもしれません

 

 

 

いずれにせよ

 

私は

生と死が繋がっていることを信じ

 

それを前提として生きていきます