粗疏の心を以て古人親切の語を看、煩躁の心を以て古人静深の語を看、浮泛の心を以て古人元細の語を看、浅狭の心を以て古人博洽の語を看、便ち品隲を加う、真に孟浪の人なり。〔品操〕
(粗い隙だらけの心を以て古人の親しく切実な語を見、煩わしくさわがしい心を以て古人の静かで深い語を見、うわっ調子な心を以て古人の深遠で精細な語を見、浅くて狭い心を以て古人の博くてあまねき語を見、そうして容易にあれこれと比較論評する。こういう輩は真実でたらめでとりとめのない人間である。)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
安岡師は解説の中、上記現代語訳に続けて、「今日のジャーナリズム・マスコミ等をみておると、実にこの孟浪の人が多い。孟浪の評論が多い。」と記されています。
令和の現代
さらに拍車がかかっているのでしょう
事象や事件に対して、古の言葉を用いて尤もらしく語っていても、よく聞けば、時代背景や前提が根本的に違っていることを無視し、聞こえのよいところだけ引っ張ってきて語っているだけということが大半です。
前回紹介した
邪見識と邪議論
そのものです
言葉は大切であり、正しく用いて伝達・記述せねばなりません。
よって、言葉は慎重に選ぶ必要があります。
そして、論理的表現は大事ですが、それに拘泥してしまうと、往々にしてその場しのぎのおべんちゃらと化してしまいます。
言葉が行き交う頭の中ばかり気にしていては、いざというときに何の役にも立ちません。
言葉は兵士ではない
議論は軍隊ではない
敵軍が国内に侵入してきたとき
言葉や議論では間に合わないのだ
<ビスマルク ドイツ初代宰相>
体で覚える
芸の世界では、頭ではなく体で覚える修行の積み重ねが大切です。
頭で理解していても忘れますし、頭で考えた芸を演じていては動きが遅くなります。
身体で覚えたことは一生忘れず、舞台でも即応即座の動きがとれるのです。
江戸前期の陽明学者である熊沢蕃山は、中江藤樹にやっと弟子入りできた翌年、父親が浪人となり貧乏のどん底に陥ってしまいます。
母がそのことを慰めとき、蕃山は、
「いえ、母上、私は藤樹先生から伺いましたが、机にかじりついて本の表紙をいじくりまわしていることが修行ではなくて、貧乏で悩むことも、困難におちいることも、災厄に出逢うことも、みな修行である。それによって心に工夫をしなければならないと教えていただきました。私は貧乏をなんとも思ってはおりません」と言い、山へ薪を取りに出かけたとのこと。
その後も数々の困難がありましたが、本でする勉強だけが勉強じゃない、苦労も勉強だとし、顕然と知行合一の生き方を貫き通しました。
<出所:『人生を創る言葉』渡部昇一著 致知出版社>
本質を看ること
ぶんぶん(文々)と
障子にあぶの飛ぶみれば
明るき方へ迷うなりけり
<二宮尊徳>
何か良さそうだ
自慢できそうだ
(あぶならば)明るいぞ
そんなことばかりに気を取られ
そっちの方向に進んでしまったら
人生そのものに迷ってしまいます