小人に似たるの君子有り。高峻奇絶にして俗検に就かず。然れども規模宏遠にして、小疵常纇以て之を病むに足らず。君子に似たるの小人有り。老詐・襛文・善蔵・巧借して天下の大悪を為し、天下の大名を占め、事幸に敗れざれば、当時後世皆欺く所となりて、而も意に知らざる者有り。君子小人の間あり。行亦まさに近くして而して偏、語亦道に近くして而して雑、円通を学べば便ち俗に近く、古樸を尚べば則ち腐に入り、寛なれば則ち姑息、厳なれば則ち猛鷓、是の人や、君子の心有りて小人の過有る者なり。毎に道を害ふに至る。学者之を戒む。
(表向きはまことに小人に似た君子がある。山が峙っておるように他からかけ離れてそそり立ち、世俗のああしたらいかんこうしたらいかんというような締め括り、礼節などに支配されない。しかし人間の規模、器量が大きくて、小さな疵、通常の欠点ぐらいは別にその人間の病 ― 苦にならない。
表向きは君子のような実は小人がある。上手なうそをつき衣を重ね着するようにうわべを飾り、何でもうまく取り入れおさめて巧みに借り、そうして天下の大悪をなして優れた名声を得る。しかも事が幸いに失敗しなければ、その時代も後世も欺かれてついにはそういう人間であるということがわからなくなる人間もある。
君子と小人との間の人間がある。行いが真っすぐなようであって実は偏っておる。言語が道理にかなっておるようであって実際は雑駁である。どこでも誰にでもまどかに通ずるいわゆる円通を学ぶというと、円通は結構だがどうも俗である。古樸 ― 松や梅の老幹のように古くて飾りけのないことを尚ぶのはよいが実は虫が喰って腐っておる。寛大であるというと姑息である。一時逃れで確信的な気迫がない。厳しいというと鷹や鷲などの猛禽のようである。かような人間は君子の心もあるが小人の過もあるから、常に道を害うことになる。だから学問をするものはよくこれを戒めつつしむのである。)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
第七等の人
小人のようであるものの器が大きい
安岡師は、坂本龍馬や勝海舟の名をあげています。
土佐、高知の生まれである私にとって、坂本龍馬はしっくりと感じ入ることができます。
生まれ育った高知では、小さいころから周囲の大人たちはそれほど龍馬を敬ったり尊んだりしていませんでした。
やるべきことを、きちんと、しっかりとやった人物、という評価が強かったように記憶しています。
もちろん、これがなかなか難しいものですが・・・
一下士の出として、ごく普通に育ち生活しつつも、身分の違いによる差別には敏感に反応する。
そしてそれを正そうと、ねじれた世に打って出る。
ときには身を隠しながら権力者に近づくようなことさえ試みながら。
“ 徳 ” というよりも“ 正義 ” 、そして “ 度量の大きさ ” や “ 邁進力の強さ ” などが特徴でしょう。
ここが、例えば西郷南洲翁のように、 “ 徳 ” が先にくる人たちとの違いでしょう。
いずれにせよ、人並み外れた大物であることは間違いありません。
第八等
君子のふりをした小人
安岡師は、昔で言う帝王、宰相、大将軍などにこういうのがよく見られるとのこと。
ただ、今もいるでしょう。
虚構や粉飾で世間を泳ぎ切ろうとし、たまたま悪事がバレないためにのし上がった者。
やがて、本人のみならず、周囲さえも大人物であるかのような雰囲気が作られていきます。
私見ですが、平成以降、大物と呼ばれる政治家の多くはこのタイプが多いような気がします。
第九等
君子と小人の間
安岡師は、中国共産党の中心人物、多数の自国民を粛正した文化大革命の首謀者である毛沢東をあげています。
「見様によっては毛沢東もなかなかよく勉強しておるし、書物も読んでおる。また君子の心もあるようにみえる。けれどもやっぱり姦雄(悪賢さや悪知恵で名声を得る者:筆者意訳)で小人の過あるものだから、ああいう非人間的なことを平気でやる」とのこと。
<引用:同上>
“ 君子、勇有りて義無ければ亂を爲す ”
<論語:陽貨第十七>
現代の世界の指導者たちに義はあるのでしょうか。
今日取り上げた第七~九等の品格、気づかれたでしょうが周囲に強い影響を与えてきました。
私たち市民、国民、人類が、特に第八等や第九等のような人物をけん制していかなければ、悲しむべき惨状が今後も生じかねません。
私の明日を創るのは
私しかいません
あなたの明日を創るのは
あなたしかいません
人類の明日を創るのは
一人一人でしかないのです