江海の能く百谷の王爲る所以の者は、其の善く之に下るを以てなり。故に能く百谷の王と爲る。是を以て聖人は民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下る。民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之より後にす。是を以て聖人は上に處りて民重しとせず、前に處りて民害とせず。是を以て天下推すを樂しんで厭わず。其の争わざるを以て、故に天下能く之と争うこと莫し。
(揚子江や東の海があらゆる谷川の王者であり得る理由は、揚子江あるいは東の海、これが谷川よりさらにいちだんと低い所にあるからである。さればこそ、あらゆる谷川の王者となり得た。)
そこで聖人は民の上に立とうと思えば、必ず言葉で民にへりくだらねばならない。民の先頭に立とうと思えば、必ずわが身を民のいちばんうしろにつける。そういうふうにせねばならない。
その結果、聖人は上におりながら、民は聖人を、自分を押さえつける存在とは意識しない。民の前におりながら、民は聖人を、自分たちの行動をじゃまするものとは思わない。
で、天下の人々は、喜んでこの聖人を推薦し、いとうことがない。
聖人は、何ものとも争わない。そういう道をわきまえているから、天下の何ものも聖人と争うことができない。
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
聖人が
上に居ても
前に居ても
民はそれでよしとする
それは
聖人は争わないから
古のとき、人々は争いごとを最も嫌い、平和を望んでいたということでしょう。
これが人間の心の原点ではないでしょうか。
しかし、人が集まるとどうしても争いの火種が生まれてしまうものです。
争いが大きくなると、争う者と争わない者の区別なく、苦しみ、もがき、泣き、叩かれ、死に絶えます。
この流れは止められないのか
いま、周囲を見渡すと、ほぼ全員が争っています。
子供たちは、他者よりわずかでも偏差値で上回らねば
高校生や大学生なら、少しでも良い会社に入るために、他者を蹴落とさねば
社会人になると、ライバル会社に勝たねば
同じ会社の中でも、出世のために同僚より実績を上げねば
ご近所づきあいでは、お山の大将にならねば
世界的な規模でも、自国の利のためには相手国の主張をつぶさねば
こう考えると、争いごとというのは、絶対性ではなく、相対的な環境が土壌になっているようです。
つまり
限られたパイを奪い合うこと
そのパイを食いつくせば
次のパイを奪い合う
争いごとは無くせないのか
以前、小学校の運動会の徒競走で、全員が手をつないでゴールさせる取り組みが話題になりました。
争いごとを無くせる
きっかけになるのでしょうか
しかし、このような教育環境で育った子たちは、やがて排他的、攻撃的になるという調査結果もあります。
争いごとが相対的な土壌から生れるとするなら、根本的な解決策にはならない、的外れの取り組みかもしれません。
争いごとは
過去から増幅し続けているようです
過去からの偉人たちによる様々な功績は
争いごとを無くすためには
何の役にも立たないのでしょうか
私たちは
ほんとうに
破滅に向かって進んでいるのでしょうか
暗闇の人類
暗闇の人生
しかし
だからこそ
自分の人生を少しでも輝かせる
それは
相対的なものではなく
絶対的な自らの価値観で生きること