決定覚悟薄き時は、人に転ぜらるゝ事有り。又集会話の時分、気ぬけて居る故に、我が覚悟ならぬ事を、人の申懸話などするに、うかと移りて、それと同意に心得、挨拶も「いかにも」と云う事有り。脇より見れば同意の人の様に思はるゝなり。夫れに付、人に出会ひて片時も片時も気の脱けぬ様に有るべき事なり。其の上話又は物を申しかけられ候時は、転ぜらるゝまじきと思ひ、我が胸に合はぬ事ならば、其の趣申すべしと思ひ、其の事の越度を申すべしと思ひて取合ふべし。差立てたる事にてなくても、少しの事に違却出来るものなり。心を附くべし。又予ていかがと思ふ人には馴寄らぬがよし。何としても転ぜられ、引入れらるゝものなり。爰の慥に成る事は功を積まねばならぬ事なり。〔聞書第一 教訓〕
(信念が不明確な者は、必らず人に乗せられてしまうことがある。人が寄り合って話などをしているとき、ぼんやりしているために、自分が心にきめてもいないことを人に話しかけられ、つい釣りこまれて「いかにも」などと挨拶することがあるが、これをわきから見られれば、全く同意しているように思われるであろう。従って、人にあうときには、片時も気を許さぬようにしていなければならない。
そして、ものを話し、あるいは話しかけられる場合には、乗せられることがないように、もし自分の考えと相違している点があれば、直ちにそれを反駁し、不同意の旨をはっきりと示すつもりで応対するべきである。
さして大きな問題でなく、ごく些細なことででも、人をおとしいれることはできるのだから、よくよく注意しなければならない。
また、日ごろから、どうかと思うような人物には親しく近寄らぬ方がよい。どうしても乗せられ、ひきこまれるものだからである。
こうした点で失敗しないようになるには、よくよく経験をへなければならぬのである。)
<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
現実に即した、処世術の教えです。
特に、若い方々は、このような状況を心得ておいた方が良いでしょう。
ただし、歳を取っていれば大丈夫かというとそうでもありません。
歳を取るに従って、結果的に付き合う人が絞り込まれますが、
それは単に気が合うとか好き嫌いを基準にしたものであり、
今日の言葉が言うような、信念に基づいた交わりではないからです。
よって、中年以降に人生の挑戦を試みようと、
門外漢ながら新しい世界に足を踏み入れるようなときには、
ことさら注意が必要です。
乗せられ、陥れられてしまう危険性を心得ておくべきです。
ではどうすれば良いか。
根本的には、人物を見抜く眼力が必要です。
簡単なことではありません。
どうかと思う人物の特徴的な印象として、
見るからに怪しい、真っすぐに見たとき目を逸らす、
存在感がありながら透明感が無い、などを私は感じます。
ただし、百戦錬磨の者は、これらを越えた振る舞いをします。
そこで、最も頼りになる力、それは直感です。
20万年前のホモ・サピエンスとして誕生してから、
連綿と培って習得してきた能力、
これらが遺伝子、DNAに刻まれているはず。
その、先祖からの贈り物としての直感で己の身を守るのです。
さて、そうは言っても、うっかり乗せられ、
嵌められそうになったとき、どう脱するか。
対処が遅れても仕方ないと割り切り、
最初から筋道を立て直した論法で異議を唱えることです。
例えば、同意したのはこれこれこういう理由から
皆のためになる方策と思いきや、どうやら違うようだと。
残念だが、私の考えとは相違しており、同意しかねるという意見を述べるわけです。
このような論法を組み立てるには、それなりの背景や根拠がなければなりません。
日頃から、世のため人のため、
私利私欲ではなく公利公益とはどういうものか、
どういう状態かを考えておくことが必要です。
その思いが深ければ深いほど、相手にぐうの音も吐かせないものになるでしょう。
ただ、それでも百戦錬磨の者は引き下がりません。
何やかやとなだめに入り、その論法を飲み込んだような言い回しで、
やはり思いは同じだね、などと説得してきます。
そのときは、相手を見つめ、一呼吸置いた上で、
残念だが思いの向かう先が微妙に相違するようだと伝え、
失礼と言ってその場を離れます。
それでも、逃そうとしない言葉で引き留めようとするでしょう。
そこで対応してはなりません。
毅然とした姿勢で背を向けたまま、
部屋を出るときに頭を下げ、
礼を表現して、その場を去るのです。
人物としての振る舞いが必要です。
子曰わく、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。<論語>
処世術とは、公利公益のために、天に尽くすこと
そしてそのことについて常に考え、
自らの意見と覚悟を明確にしておくことに他なりません。