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COLUMNSブログ「論語と算盤」

平均に寄らない

2022年2月1日

のたまわく、みちこころざして、あくあくしょくずる者は、いまともはかるにらざるなり。

(先師が言われた。

 「いやしくも道に志す人で粗衣粗食を恥じるようでは、

まだ共に語るに足らない。」)

<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>

  

 

自らの貧しさを恥じているようでは、

道に志した生き方として、まだ認められたものではないということです。

 

 

 

 

 何の準備も心構えもない状態で、

気位の高い場所に案内されたら、どう振舞いますか。

 

それは、あなたにとって出世のチャンスかもしれません。

 

 

恥をかいてはいけない。

自分はその立ち位置にふさわしい人物であると認められたい。

 

 

そんな風に考えるほど、現れてきてしまうのが、志の弱さです。

 

 

 

思いが真っすぐであるのなら、

臆せず、恥じず、

きちんと、静かに、たたずめば良いのです。

 

 

 

身体からにじみ出るものは、その思い、志であり、

どこかで見たようなせこせこした振る舞い、

通りいっぺんの常識など無意味です。

 

 

もしも、そんな要素を重視する相手であれば、はなから会う意義はありません。

 

 

 

よって逆に、あなたが人を見定めねばならない場合、

 

外見や仕草に惑わされず、その相手が持つ、深い所を観察すべきでしょう。

 

 

 

見てくれや常識が先に立つような相手とは

 

真の関係は生まれません。

 

 

 

今日の言葉の「惡衣惡食を恥ずる」という思いは、

裏返せば「良衣良食を貴ぶ」思いになります。

 

 

志を語り合う場において、雑音に気を取られる姿、

 

まだまだ未熟ということです。

 

 

 

昨今は、マナーや常識にずいぶん重きを置くような風潮があります。

 

それ自体は悪いことではないでしょうが、

それらは常に“脇役”であることを忘れてはなりません。

 

“主役”はあくまで、志、夢、仁、人生観、価値観です。

 

 

 

思えば、日本の経済的凋落や心の空洞化などは、

この“主役”を置き去りにして、“脇役”に重きを置いたせいではないでしょうか。

 

中流の生活、平均的な人生を送りたいという願望・・・

実は、人の生きる活力をむしば呪文じゅもんです。

 

 

 

若い人の中には、周囲の目を強く意識する人が多いようですが、

これは悪い意味の愚かさです。

(良い意味の愚かさなら好ましいのですが。)

 

人の目など気にせず、独立独歩、てんじょうてんゆい独尊どくそんで生きねば、

 人生の「航海」を味わうどころか、「後悔」の人生にしかなりません。

 

 

 

「自分に命令しない者は、いつになっても、しもべに留まる」

                      <ゲーテ>

 

 

一人一人が、

  常識や世間的平均に寄ろうとする受け身(受動)の思いを捨て、

人生というドラマを創り上げる能動的な生き方を追うこと、

これが日本の次代を拓くのではないでしょうか。