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COLUMNSブログ「論語と算盤」

素心の声

2022年1月28日

孔德こうとくようは、ただみちにこれしたがう。道のものたる、唯こうたり唯こつたり。惚たり、恍たり、そのうちかたち有り恍たり惚たり、そのうち物有り。ようたりめいたり、そのうちせい有り。其の精はなはしんなり、そのうちしんあり。いにしえより今に及ぶまで、その名去らず。もっしゅうぶ。われ何を以て衆甫のしかるを知らんや、これを以てなり。〔孔德之容章第二十一〕

(ほんとうに道に従っている人の外見は、これはいかにも盛んな徳、それが姿に表れている。

 道というものそれ自体、ぼんやりとして目に見えない。目には見えないけれども、全く皆無ではない。その中にはなんらかの象徴的な形が、その中にはある。目にも見えず耳にも聞こえないけれども、その中には何ものかがある。

 奥深く、ほの暗いその中に何らかの精気のごときものがある。その精気というべきもの、これは虚なるものではない、真実在である。その中には実がある。ほんとうのものがある。

 昔から今に及ぶまで、道というものは目には見えないけれども、あらゆるものの中に存在して去ることがない。あらゆるよきものは、この道を経過して出てきたものである。私は何によって、この目に見えるあらゆるよきものの、来歴を知り得たのか。それはこの道自体が物語っているからである。)

<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>

 

 

 道に従っている人の姿には、盛んに徳が現れる。

 

言い換えれば、道が外見に表れたときは、自ら盛んな徳となる。

 

 

徳があるものをよく見ると、虚でない、真に実在する何かが見える。

 

それは、あらゆるすべてのものに存在する。

 

 

 

徳をよく見ることで、道というものの本当の姿が、

おぼろげながら見えてくるとのこと。

 

今日の言葉は、「徳」という目に見える現象から、

「道」の本質を感じ取れという意味でしょう。

 

 

帰納的です。

 

この考えから行動するのも有意義かもしれません。

 

 

通常、人は自分の中身を磨き上げようとし、

その後に良き言動を表現しようとします。

 

 

それは演繹的であり、理想的でもあります。

 

偉人と呼ばれる人々は、逆境にたいし、艱難かんなんしんを乗り越え、

自らを磨き上げながら、大いなる功績をあげています。

 

自分の内面を磨くこと、それは人間の一生の課題と言っても良いでしょう。

 

 

ただ、多くの場合、磨き上げた内面をなかなか発現させられません。

 

下手すると、発現させられないまま生涯を終えてしまう可能性もあります。

  

それもそれかも知れません。

 

 

 

しかし、逆の見地からの言動も真なりです。

 

それは、無条件に他者に手を差し伸べることです。

 

これこそ、盛んな徳の発現です。

 

 

利他の心から、無条件に、困った人誰にでも手を差し伸べること、

これは、盛んな徳という範疇になるでしょう。

 

 

決して自分を飾ることではありません。

 

自身の素心、俗世間に着色されたものでない純粋な思いやりや仁の心、

その素心から発せられる声に耳を傾けて、素直に行動するのです。

 

 

この結果は、きっと、自らの魂を一層磨き上げてくれるでしょう。

 

 

 

演繹的に自分を磨き、帰納的に行動することで、

自分の心に新しい観点から磨きがかかる、

それを自分で培養し、改めて磨き、再度帰納的に行動する・・・

 

 

この繰り返しが、自らを成熟させることにつながるのでしょう。