孔德の容は、唯道にこれ從う。道の物たる、唯恍たり唯惚たり。惚たり、恍たり、そのうち象有り恍たり惚たり、そのうち物有り。窈たり冥たり、そのうち精有り。其の精甚だ眞なり、そのうち信あり。古より今に及ぶまで、その名去らず。以て衆甫を閲ぶ。吾何を以て衆甫の然るを知らんや、これを以てなり。〔孔德之容章第二十一〕
(ほんとうに道に従っている人の外見は、これはいかにも盛んな徳、それが姿に表れている。
道というものそれ自体、ぼんやりとして目に見えない。目には見えないけれども、全く皆無ではない。その中にはなんらかの象徴的な形が、その中にはある。目にも見えず耳にも聞こえないけれども、その中には何ものかがある。
奥深く、ほの暗いその中に何らかの精気のごときものがある。その精気というべきもの、これは虚なるものではない、真実在である。その中には実がある。ほんとうのものがある。
昔から今に及ぶまで、道というものは目には見えないけれども、あらゆるものの中に存在して去ることがない。あらゆるよきものは、この道を経過して出てきたものである。私は何によって、この目に見えるあらゆるよきものの、来歴を知り得たのか。それはこの道自体が物語っているからである。)
<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>
道に従っている人の姿には、盛んに徳が現れる。
言い換えれば、道が外見に表れたときは、自ら盛んな徳となる。
徳があるものをよく見ると、虚でない、真に実在する何かが見える。
それは、あらゆるすべてのものに存在する。
徳をよく見ることで、道というものの本当の姿が、
おぼろげながら見えてくるとのこと。
今日の言葉は、「徳」という目に見える現象から、
「道」の本質を感じ取れという意味でしょう。
帰納的です。
この考えから行動するのも有意義かもしれません。
通常、人は自分の中身を磨き上げようとし、
その後に良き言動を表現しようとします。
それは演繹的であり、理想的でもあります。
偉人と呼ばれる人々は、逆境に対峙し、艱難辛苦を乗り越え、
自らを磨き上げながら、大いなる功績をあげています。
自分の内面を磨くこと、それは人間の一生の課題と言っても良いでしょう。
ただ、多くの場合、磨き上げた内面をなかなか発現させられません。
下手すると、発現させられないまま生涯を終えてしまう可能性もあります。
それもそれかも知れません。
しかし、逆の見地からの言動も真なりです。
それは、無条件に他者に手を差し伸べることです。
これこそ、盛んな徳の発現です。
利他の心から、無条件に、困った人誰にでも手を差し伸べること、
これは、盛んな徳という範疇になるでしょう。
決して自分を飾ることではありません。
自身の素心、俗世間に着色されたものでない純粋な思いやりや仁の心、
その素心から発せられる声に耳を傾けて、素直に行動するのです。
この結果は、きっと、自らの魂を一層磨き上げてくれるでしょう。
演繹的に自分を磨き、帰納的に行動することで、
自分の心に新しい観点から磨きがかかる、
それを自分で培養し、改めて磨き、再度帰納的に行動する・・・
この繰り返しが、自らを成熟させることにつながるのでしょう。