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COLUMNSブログ「論語と算盤」

目的のために意見する

2021年8月17日

意見と云ふは、先づ其の人の請くるか請けぬかの気をよく見分け、入魂じっこんになり、此方の言葉を兼々信仰ある様に仕なしてより、好きの道などより引入れ、云ひ様種々に工夫し、時節を考へ、或は文通、或は暇乞などの折か、我が身の上の悪事を申出し、云はずしても思ひ当る様にか、先づよき処を褒め立て、気を引き立て工夫を砕き、渇く時水飲む様に請合わせ、疵直るが意見なり。殊の外仕にくきものなり。年来の僻なれば、大体にて直らず、我が身にも覚えあり。諸朋輩兼々入魂をし僻を直し、一味同心に御用に立つ所なれば御奉公大慈悲なり。然るに恥を与へては何しに直り申すべきや。〔聞書第一 教訓〕

(人に意見をする際には、まず相手がそれを受入れる気持があるかどうかをよく判断し、互に心をうちあけ合うほどの仲となり、こちらの言葉を信頼するような状態にしなければならない。

 その上で、趣味のことなどから気持を引き、いい方、いう時期などをよく考え、手紙を利用し、暇乞の折にふれ、あるいは自分自身の弱点や失敗の話などして、直接相手に意見をせずとも思いあたるようにするのがよい。また、まず相手の長所をほめ、気分を引き立てておいて、ちょうど喉のかわいた時に水を欲するように、こちらの言い分を自然に受入れさせ、欠陥をなおしていくのが本当の意見である。大変にむずかしいものである。

 誰しも欠陥、弱点というのは長い間しみついているものであるから、一とおりのことで直せるものでないことは、自分にも覚えがある。同僚同士がお互に親しくなりあって、その欠陥をただしあい、一つ心になってご奉公につとめるようになることこそ、真の大慈悲である。いたずらに人を恥かしめて、どうしてこの目的を達することができようか。)

<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

先回に続く、「葉隠〔聞書第一 教訓〕」の後段です。

 

 現代語訳を読むにつれ、本当にそこまで丁寧に書いているのかといぶかしむのですが、

原文を確認するとそのとおりであることがわかります。

 

 

個人的に非常に驚かされます。

 

 「葉隠」は、佐賀鍋島藩第二代藩主鍋島光茂なべしまみつしげの御側役であった山本常朝やまもとつねとも16591719)が出家してからの談話を、同藩の後輩にあたる元御祐筆役田代陣基たしろつらもと16781748)が記録し、1716年(享保元年)に脱稿させた書物です。

 

 そのような過去の時代に、他者の癖を直してあげたり言動を良くしてあげたりしようと、共感を演じたり相手の心に寄り添ってみたりするなど、人間の心理面に相当に詳しいことに感服します。

 

 相手側の立場になって想定すると、このようなアプローチをされると、素直にならざるを得ません。

そして、進んでアドバイザーの意見を理解しようとし、自らを納得させようとさえするでしょう。

 

 

 自分を振り返ると、例えば同僚や後輩に対して、ここまで丁寧にアプローチできていたかと問われると、全くもって足元にも及びません。

 

 ついでに「なら、今はできますか?」と問われても・・・、

苦笑いしてかわすのが精一杯です。

 

 

 当時、なぜ、ここまで手厚く対処していた(試みていた)のか。

 

 

現代語訳に書かれていますが、目的のためとのこと。

 

 

 自分の感情や自尊心などは排除し、仲間とともに優れた人物になることが、藩主を守りそして従い、藩を治めるという武士の目的に合致することなのでしょう。

 

 

 組織の目的が、明確であり、共感・同意でき、自らの志と一致する場合、

私たち日本人は、ここまで配慮・工夫・努力できるDNAを持っているわけです。

 

 

   それから300年、私たちの感受性は、

武士の時代から退化しているのではないでしょうか。

 

 

 今回もそうですが、「葉隠」に接すると、

    「死を眼前に据え、生きて目的に向かう」という姿が脳裏に浮かびます。

 

    また、命を燃やし尽くす生き方そのものにも尊敬と憧れを感じます。

 

    そしてこの命、生ぬるい価値観に浸り、

日々浪費しているだけではないかと自省させられます。

 

 

嘆いていても仕方ないので、今日の言葉を自分なりに実践することとしましょう。

 誰か知人ひとりを標的にし、そうと気付かれぬようアプローチするわけです。

 

相手にとっても自分にとっても、ともに喜びにつながることを期待して。