子曰わく、君に事うるに禮を盡せば、人以て諂えりと爲すなり。
(先師が言われた。
「君に事えるのに礼を尽くすのは当然であるが、世間の人はへつらいだという。」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
主君に礼を尽くして仕えることは、国の太平をめざす民として正しい姿勢でしょう。
ただし、国の太平になど関心が無いというのであれば、
「礼」は単におべっか、へつらいと捉える人もいるでしょう。
この言は、いみじくも、論語の底流「儒教」に対する批判の声とも感じます。
具体的には、「儒教は、君と民の上下関係を崩すものでなく、価値観の多様性が容認されていない」という批判です。(「儒教入門」土田健次郎著 東京大学出版会より)
特に、多様性の容認が進む現代の視点からは、
このような批判の妥当性が増していると言えます。
主君として崇めること自体が不自然であり、人類は平等、政を司る者は単に国民がその任のために選んだ者という考えが健全かつ自然であると認識されます。
さて、現在の日本の政治体制について、どうお感じでしょうか。
政権与党と野党の批判合戦は、お世辞にも道徳的なものではないと多くの国民が感じているでしょう。
それを裏付けるように、現政権の支持/不支持のアンケート結果では、「他に良さそうな政治家(政党)が無いから」という回答が常に上位に位置しています。
多くの人が、与党についても野党についても、
良い所も悪い所も両方あると感じているのではないでしょうか。
ここで少し考えてみてください。
・いま仮に、国民の「レベル」が政治家よりも低い場合、
国民は現在の政治家を認め、そして選び、敬うことでしょう。
・逆に、国民の「レベル」が政治家よりも高い場合、
国民は現在の政治家を認めず、そして選びません。
より高い「レベル」の候補者を見出し、選ぶことになるでしょう。
・そして、国民の「レベル」が政治家と同等の場合、
現在の政治家を認める国民もおればその逆もおり、
選ぶ国民と選ばない国民の両者が混在します。
このように考えると、三つめの状態こそが、
現在の日本の有権者と政治家の位置づけということがわかります。
つまり、現在の国民の「レベル」は、政治家の「レベル」と一致しているのです。
実はこのことは幸いであり、政治家の「レベル」を上げる方法がここに見出せます。
それはつまり、私たち国民自身が自らの「レベル」を上げることです。
では、カギカッコで示してきた「レベル」とは何でしょう?
少なくとも、出身校・家系・容姿などではないことを、
私たちは実際の現象や自らの経験から学んできたはずです。
では改めて、「レベル」とは?
それは【人間力】でしょう。
人間力とは、「知識、技能、実行力、徳性といった諸々の要素が
総合して練り上げられ、発酵し、結晶することで生じるもの」
(「小さな人生論」致知出版社より)
例えば、人の尊重、優しさ、擁護、育成、道徳心、
自己の強さ、忍耐力、志、探求、挑戦、覚悟、
日々への感謝、自然の畏怖などでしょうか。
これらを意識する度合いが増したとき、「レベル」が上がります。
そしてそのとき、私たちの周りの環境や国の姿は、
間違いなく変わるはずです。
もっとも、そう言う私自身、まだまだ未熟も未熟。
彫刻家の平櫛田中(1872~1979)によると、
「六十、七十ははなたれ小僧」とのこと。
年齢は近接してきましたが、中身はまだまだその手前、
ミトコンドリアくらいかなと・・・(笑)。
他人や政治家を非難することは、
自らの人間力の低さを非難していることと同じです。
過去にこんなこと、聞いた記憶はありませんか。
「人差し指で人を指して非難するとき、
中指・薬指・小指の3本は、自分の方を指している・・・。」
自らの人間力を磨き続けたいものです。