山本前神右衛門(注・常朝の父)は、家来共に逢ふて、「博奕を打ち虚言をいへ。一町の内七度虚言いはねぼ男は立たぬぞ。」とのみ申され候。昔は唯武辺の心掛のみにて候故、まとう者(注・まっとうな者)は大業ならぬと存じ、右の通りに申され候。不行跡の者も知らぬ分にて免し置き、「よき事をしたり。」と申され候。相良求馬なども、盗み、密懐仕り候家来共を免し置き、段々仕立て申され候。「左様の者ならでは用に立つ者出来ず。」と申され候由。
(山本前神右衛門は家来の人々に「ばくちをうて、うそをいえ、一町歩く間に七度うそをいわねば男として役には立たぬぞ。」とだけいっていた。
昔はただ武勇の心がけさえあればよかったので、なまじ行儀ばかりよいような者には大きな仕事はできぬと思われ、右のようにいっておられたのである。
素行のよからぬ者に対しても、知らぬ顔をして許しておき「よいことをした。」などといっておられた。
相良求馬なども、盗み、密通などをした家来どもを許しておき、次第に育てていかれたが「そうした者でなければものの役に立つようにはならぬものである。」といっていたという。)
<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
腑に落ちる教訓ではないでしょうか
社会人になって間もないころ、無難に、真面目に、言われたことをきちんとやるような先輩や上司に対して、失礼ながら「この人に大きな仕事はできないだろうな」と感じたものです。
物分かりの良い人というのは、要するにかわいがられたい人であり、言われたことをやる人です。
よって、正しくないことを指示されても、結局やってしまいます。
反論して抵抗ができれば救われますが、そうするとかわいい奴ではなくなり、それはかわいい奴と思われたい人にとっては避けたい事態なのです。
しかし、組織というか世の中全般において、筋違いの要求、正当性のない強圧、核心の見えない指示などに対しては、きちんと反論すべきでしょう。
それができるような
“ 自分を生きる ” 人は
特に若いころ
常識や客観など考えません
だから自ずと粗雑になります
そして失敗もたくさんします
しかしそこから学びます
失敗など気にしません
知らぬ間に糧にしてしまいます
おりこうさん
物分かりの良い人は違います
失敗を避けます
まぬけ呼ばわりされることが怖いから
つまりは
“ 他者を生きる”(他者評価で生きる)人です
失敗を避けるために
挑戦はしないという選択
残念ながらそのうち
どこへ行ったか見えなくなります
では、武勇な人、というか、今後どうなるかわからないけど破天荒な人、蛮勇な人は、必ず大人物になるのでしょうか。
これは何とも言えないでしょうね。
しかし、“ 自分を生きる ” 人の中でも、本物は少なくとも次の三つはやらないでしょう。
一 威を借りる
家柄、親、所属組織、地位や役職、出身学校などを鼻に掛ける輩は所詮小物です。
このような人は、他者を攻撃する傾向もあります。
自らに自信がない裏返しであり、自分の「威」の強さを認めさせたいのです。
一 連む
仲間と一緒でしか行動できない者
我は強いものの価値観や判断基準が曖昧なので、自分一人では決断できません。
人が食事する姿は、その人の器を雄弁に語ります。
一人で食事をしている人で、堂々と背筋が伸びている人は滅多にいません。
心細いのか、悲観しているのか、背を曲げ、貧相に見えます。
一 陰でやる
良悪を問わず、影日向なく行動する破天荒な人は “ 自分を生きる ” 人でしょう。
人目を避けてしかできないのは、単なる下衆でしかありません。
所詮一度の人生
自分の五体ひとつで
転び
ぶつかり
笑いながら
堂々と歩んでいきたいものです