原思、之が宰たり。之に粟九百を與う。辭す。子曰わく、毋かれ、以て爾が隣里郷黨に與えんか。
(原思が先師の領邑の宰領になった時、先師は米九百を与えられた。清廉な原思は多すぎると思ってことわった。
先師が言われた。
「遠慮しなさるな。若し多過ぎるようなら、お前の隣近所に分けてやればよいではないか」
※原思、門人、姓は原、名は憲、字は子思、清貧に安んじた。)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
富は
人の心を狂わす力を持っています
孔子は前回見たように、冉子による子華への過分な施しについて苦言を述べています。
それに対して今回、孔子が与えたものを原思が遠慮したら受け取れば良いと諭します。
この相反するような
孔子の考え方をどう解釈するか
一つの背景として、孔子が魯の司法長官になった時に、原思が首長に任命されたことがあげられます。
孔子は、原思への労いと期待とともに、魯の国における人民救済を考えていたのでしょう。
つまり原思一人にお祝いとして与えようとしたわけではなく、もっと広い視野からの行為であったと思われます。
もう一つ、原思自身が清貧を貫く人物だったということです。
富を手にすることの害を充分に認識していたのかもしれません。
しかし、望まれるは、富の有無に関わらず、正しい考えと判断により人々が安住できる国を創り上げるという働きです。
孔子はそのことも理解してほしかったのかもしれません。
富が有する両刃の剣に気づかず
無防備かつ安易に
施しを受け入れてしまう
思慮の未だ浅い子華の場合とは
全く異なる場面です
富、名誉、地位には
人の価値観や生き様を
一変させる魔力があります
振り返ってみてください。
多くの人は
少しの富・名誉・地位を得ると
徐々に傲慢さが顕れてくるのでは?
他方で
貧しい環境や
下位で虐げられている状況では
人は本質を考えようとし
人生の意義や生き方に
正面から向き合おうとするもの
外的要因で
自らの考えや価値観を
左右されるようならば
まだまだ未熟
修養不足
私自身も全く至っておらず
今後は一層真剣に
自省と研鑽を
積み重ねなければなりません