道は萬物の奥。善人の寶とせらるる、不善人の保んずる所なり。美言以て市るべく、尊行以て人に加うべし。人の不善何の棄つることか之れ有らん。故に天子を立て三公を置く。拱壁有りて以て駟馬に先だつと雖も、坐ら此の道を進むるに如かず。古えの此の道を貴ぶ所以の者は何ぞや。求めて以て得、罪有れど以て免ると曰わざるか。故に天下の貴爲り。
(道とは万物の奥底にあるものである。つまり、賢人愚人すべてがそれを分かちもつもの、そういう意味に於てである。
善人はもとより宝とし、愛されるものである。しかし、悪人もまた道の一部分を等しく所有しているものであるから、当然包容されるべきものである。
美しい言葉は、自分を売り出すことができる。気高い行いは、人々の上に自分の名前をあげることができる。
つまり、人の本性が善であることはこれでも知れる。一見悪いとみえる人も、けっしてこれを見捨てるべきではない。
天子が即位したとき、賢人を三公の位に置いて、ひとかかえもある玉、それから四頭の馬、これを賜わることがある。しかし、それよりは天子自身へりくだって、この道を求めるがよい。
昔の人がこの道を貴んだ理由は何か。それは、本来自分の中にある。ただ気が付いていないだけで、求めればそれが得られる。たとえ悪人といえども、罪ある人間といえども、ほんのちょっと善に志すことがあれば、罪を免れる。そういう理由によるのではないか。
これこそが、この道が天下に貴ばれる理由である。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
大宇宙を創り上げている“ 道 “
“ 道 “ は
万物のもっとも奥深くに位置しています。
その上で
私たちは喜怒哀楽な一生を歩んでいます。
私たちは、“ 道 “ がもつ善の影響を受け、その善なる行為がこの世を良くすることを、知らず知らずのうちに感じています。
不善も時には目にするものの
根っこは善
私たちは
善で形づくられている“ 道 “ によって
生かされています
“ 生かされていること ”
これが実感しづらい人は多いようです。
かく言う私も、物理的には間違いないものの、精神的には受け入れづらいと感じてきました。
しかし、来春還暦を迎えるにあたって、少しずつ変化してきています。
若いとき、生かされているという感覚はほとんど無いでしょう。
しかし、歳を経るに従って、多くの人や仕来りに恩恵を受けている、助けられている側であることに気づかされてきます。
やっとそう思えるようになり
いまから自分を修め
自分を創り上げていきたい
「還暦」という仕来りは
実によくできたものだと感じ入ります。
歳を取って、その日の思い付きで一日を単に消費するような生き方では、“ 道 “ に排除されます。
きっと “ 道 “ は、年齢に応じて生の基準、生かす条件を上げてくるでしょう。
善と不善が混濁する若年層に比べ、壮年層による善の集合体の勢力が大きくなればこの世はより良くなる、“ 道 “ はそういう仕掛けをしているはずです。
大宇宙の創造主 “ 道 “
“ 道 “ は善で形作られています
その “ 道 “ に生を与えられた私たち
善の世を創り
“ 道 “ の思いを具現化すること
それが私たちにとって
最も心安らぐ生のはず