Loading

COLUMNSブログ「論語と算盤」

老子と宇宙論

2020年10月16日

道のうべきは常の道にあらず。名の名づくべきは常の名に非ず。名無し、天地の始め。名有り、万物の母。常に無にして、以てその妙をんと欲す。常に有にして、以てそのきょうんと欲す。この兩者は同じく出でて名を異にす。同じくこれを玄とう。玄の又玄、衆妙の門。

<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>

 

 老子を取り上げました。長文で難解に見えますが、大変興味深い内容です。

 

 安易な解釈は良くないでしょうが、敢て意訳すると、前段は「言葉で表現できるものは恒常的な道ではない。名前があるなら変更できるからである。言語で表現できないものこそ絶対に変わることのない恒常的なものであり、それは天地の初めである。易経で言う陰と陽の二元が出てくる以前の段階で、目に見えない、言葉で表現できない混沌とした状態である。」となります。

まるで、宇宙の始まりの瞬間を表したインフレーション理論のようです。

 

 続いて、「陰と陽に分かれ始めると言葉で表現できる名前が付く。これが万物の母、万物の始まり。」となりますが、言うならばインフレーションに続くビッグバン理論でしょうか。

 

 さらに「道を学ぶものは、常に無について突き詰めて考えることで、どのようにして有を生み出すかという微妙な動きを見ることができよう。また、常に有について突き詰めて考えることで、その有が無から生じたという徼(秘密:目に見えない穴・通路)を知ることができよう。この有と無の両者は、同じところから出てきたものである。」

 

 こうなってくると、もはや二つが対になって存在する量子の動きを表している量子論ではないかとさえ感じざるを得ません。

 

 老子はこのように、荘子や孟子など諸学派(諸子百家)が触れない宇宙論的な考えを述べつつ、実のところ人の心について言及しています。

 天地の初めとは、無欲・無垢・無心の心を表し、その後「名有り」となると、仁義や道徳など名の付く概念が発生した状態での人間の心、両方の心の理解が必要だと言うのです。

 

 「両者はともに玄という。これは万物の作り手の神妙な働きを意味する。そしてそれより以前もまた玄という。目に見える一切のもの、例えば動物や植物などは全て等価値であり、それが出てくるところを衆妙の門という。」

 

 以上、「道德眞經口義」の「道可道章第一」です。

 

 ところで老子の経歴は、よくわかっていないようです。孔子と同年代で問答したとか、そもそも老子という人物は存在せず、格言の類を寄せ集めた書物だとも言われています。

 出典元の講述者である本田氏は、孔子の没後130年、つまり紀元前350年くらいを生きた特定の個人であり、何らかの事情で野に隠れた人、知られなかった人、知られたくなかった人であろうと述べています。

 

 それにしても、そんな昔に、相対性理論や量子論のような考えに至っていたことに驚きます。

巷にうるさい情報が溢れる現代と違った、静かな漆黒の闇の中でこその悟りなのでしょうか。