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COLUMNSブログ「論語と算盤」

“ 残酷の角 ” を直視する

2024年3月15日

山本吉左衛門(注:常朝の兄)は、親神右衛門指図にて、五歳にて犬を切らせ、十五歳にて御仕置者を切らせ申され候。昔の衆は十四五歳より内にて有無に首を切らせ申され候。勝茂公御若輩の時分、直茂公御指図にて御切習ひ成され候。その内続け切りに十人も遊ばされ候由なり。昔は上つ方さへ斯様に遊ばされ候に、今時は以下々々の子供にも終に切らせ申さぬ事は、油断千万にて候。せで済む事、縛り者切りたりとて手柄にもならず、科になるの、けがるゝのと申すは、口ふさげにて候。畢竟は武勇の方疎々しき故、爪根みがき、綺麗なる事ばかりに、心懸け候故かと思はるゝなり。いやがる人の心の内を詮議して見候へば、気味わるき故に利口にまかせ、切らぬ様に云ひなし申さるゝと存じ候。せでならぬ事なればこそ、直茂様御指図成され候。先年、嘉瀬(注:佐賀市外、当時の刑場)にて切り候て見申し候が、殊の外心持になり申すものにて候。気味わるく思ふが、臆病のきざしにてあるべく候。〔聞書第七〕

(わが兄・山本吉左衛門は父親、神右衛門の言いつけで、五歳で犬を切らされ、十五歳で死罪人を切らされた。

 昔の人は十四、五歳ともなれば、みな人の首を切らされたものである。

 勝茂公が御若年のころにも、直茂公のお指図で人を切る修練をなさり、そのうちには続けざまに十人も切らされたということである。

 昔は身分のある方でさえこのようになさったものを、今では身分低いものの子供にも、一度も人を切らせるようなことがなくなったのは、不心得至極のことである。

 そうしたことはせずともよいとか、しばられた者を切っても手柄にはならぬとか、罪だの、けがれるのなどというのは、みな逃げ口上にすぎない。

 結局は武勇の道にくらく、手先をキレイにし、上品ぶったことばかりしようとするためと思われる。いやがる者の気持ちを察して見るに、気分がわるいものだから、口さきまかせに、切らずにすむよう口実をつけているとしか思えない。だがこれは、武士としてしなければならぬことだからこそ、直茂公も勝茂公に指図なされたのである。

 自分(常朝)も先ごろ嘉瀬の刑場で切って見たが、大変心もちのよいものであった。気分が悪いなどというのが、そもそも臆病のあらわれではないだろうか。)

<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

 

 

こればかりは頂きかねる教訓

 

(著者神子氏の解説)

 

 

 

21世紀を生きている私たちにとっていささか、いや過激すぎると捉えられるでしょう。

 

しかし、たかだか100年前はこのようなきたりや戦争という大義名分によって、頻繁にしかも軽々しく殺人が行われていました。

 

違う思想、違う土地、違う肌、違う国の人々を殺害すること、まるでそれが勇気ある者の証と言わんばかりに、地上に人間の死体を量産したのです。

 

 

 

その後

冷戦を経て

平和に向かうと思いきや

この数年は逆行の様子

 

 

 

 

 

かの時代はおいえのため、殿のため、藩のために違う考えの者を斬る、または盗人ぬすっとなど罪人を罰するために斬っていたのでしょう。

 

そうしないとおいえや藩という組織が守れないから。

 

 

当然、冤罪や不条理もあったでしょう。

 

それらを隠し、異物を排除して秩序を守ろうとしたのです。

 

 

 

基本的な考え方や枠組みは

今も昔も大差ありません

 

 

 

 

 

他方、今の時代の人は、心に棲み付く “ じゃ ”、“ 残酷のつの ” を折られ斬られています。

 

 

いじめ

暴力

ハラスメント

 

これらは決して肯定できません。

 

 

しかし、人間の心に棲み付く“ 残酷の角 ” は、きれいさっぱり無くすことができるのでしょうか。

 

 

 

 

 

先日、ある組織の経営層の方とお話しておりましたが、社員の仕事に対する野心、冒険心、挑戦心、仕事を通じた自己実現というような気持や意欲が無くなってきているようだという感想が、お互い一致しました。

 

感じられるのは、無難に、言われたことを、目立たないようにやるだけという姿勢。

 

 

 

“ 残酷の角 ” を斬られると同時に

 

自らの命を輝かす “ 生き抜く力 ”

 

これもへし折られているのでは

 

 

 

 

そして“ 残酷の角 ” は、心の一層深い部分へとその棲み処すみかを変えているようです。

 

仲間外れや誹謗中傷などは排除しようとする陰湿さの表れであり、また犯罪の残虐さもエスカレートしているようにうかがえます。

 

 

何かのうっ憤を晴らさんばかりに

 

闇に追いやられた

“ 残酷の角 ” が這い出ようと

 

 

 

 

現代、「武士のなさけ」と言っても、どういう場面で使う言葉か、何を意味しているのか、さっぱり分からない、イメージすらできないという人が多いでしょう。

 

 

 

 

 

今日の教訓としての昔の仕来

 

あなたは排除しますか

 

 

 

そう

 

排除したいというその気持ち

 

それこそが心の内面に巣食う“ 邪 ”

 

目には見えない “ 邪 ” の姿

 

誰もがもつ

 

“ 残酷の角 ” の姿なのです