小才は人を禦ぎ、大才は物を容る。小智は一事に耀き、大智は後図に明らかなり。〔晩二四九〕
(わずかな才能を持つ人は他人の受け入れを拒んで自己に固執するが、大きな才能を持つ人は他人の言動や事物を包容していく。浅智慧は一時的に輝くことがあるが、優れた智慧は将来にまで残るような計画を明らかにするものである。)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
人より少しの才能があれば、それが得意になり、それに頼ろうとします。
他者からの教えを拒み、独力で何かを成し遂げようと試みます。
それはそれで悪いことではないでしょう。
ただし、如何せん、自分一人の視野・視点でしかないため、その効力は自ずと限られた範囲、一定の水準に留まってしまいます。
一方、自らの才能を謙虚に受け止め、多くの他者の視点や考え方を学ぼうとする人は、やがて周囲から賛同を得て、称賛されるような働きを見せることになります。
もちろん、多くの意見をそのまま用いたり、単なる妥協点を見出したりすることでは何も生み出せません。
そこには、成すべきことの正しさ、成すことの意義、成すべき使命感が求められます。
起点は常に
自分自身がこの生で何を成すのか
この一点にかかります
ドイツの初代宰相ビスマルクの言
~賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ~
無造作に学んでも意味はなく
何を成すかという理想があってこそです
学んだことを自らの血肉とし
立ち上がって切り開く覚悟が
“ 心の根本 ” に必要なのです
浅知恵というものには、短絡的、平均的、前例踏襲という思考の性質があります。
独立して事業を始めようとしたときや専門的な世界に挑戦しようとしたとき、周りから「独り身に限るぞ」と諭されることがあるでしょう。
これは、独立が失敗したとき、家族ともども不幸になってしまうぞ、後悔するぞというような親切心から生れた意見かもしれません。
誰もが表面的には納得する教訓めいた言葉です。
まして起業やプロとして生きていこうとするような挑戦は、成功よりも失敗の確率の方が高いのですから。
しかし、よく考えてみると、そこには「なすべきこと、意義、使命、理想」は見当たりません。
“ 心の根本 ” のない場では、教訓めいて聞こえることも戯言にしかなりません。
佐藤慶太郎(1868~1940)、世の中に大変な額の寄付を行った北九州の石炭王です。
名主の長男として生まれたものの、家庭に問題が生じて幼少から赤貧の生活に陥りました。
若くして苦難を味わい、25才のときに九州の石炭商山本修太郎に見込まれて、約8年間無報酬で番頭を務めます。
その後、独立するにあたって、山本氏がその貢献に報いようと出資を申し出ますが、佐藤慶太郎はそれを断ります。
「八年間奉公させていただいたおかげで、石炭の見分け方から、売り込み、その他の業務一切を経験させてもらいました。その上、この信用ある店で長年奉公したから、自分にも信用がついてきました。この経験と信用という二つの大きな無形の財産を分けてもらった以上、その上の贈り物を受けるわけにはゆきません。」
その後、ほんの小さな事務所からスタートした彼の事業は、財閥など大手からの信用を背景に大きく発展していくのです。
佐藤慶太郎は
米実業家カーネギーを信奉していたとのこと
彼のこのような考え方こそ
成功者の発想なのです
<出所:『人生を創る言葉』渡部昇一著 致知出版社>
無報酬での奉公に感謝する心
この考え方に至るには
なすべきこと、意義、使命、理想という
自らに “ 心の根本 ” があってこそでしょう