湛然和尚(注・佐賀の傑僧)平生の示しに、出家は慈悲を表にして、内には飽くまで勇気を貯へざれば、仏道を成就すること成らざるものなり。武士は勇気を表にして、内心には腹の破るゝほど大慈悲心を持たざれば、家業立たざるものなり。これに依つて、出家は武士に伴なひて勇気を求め、武士は出家に便りて慈悲心を求むるものなり。我数年の遍参に、知識に逢ひて修行の便に成りたること一つもなし。それ故、所々にて、勇士とさへ聞けば、道の難儀をも厭はず尋ね行き、武道の話を聞きしが、是にて仏道の助けになりたること、確と覚えあり。~中略~ 然るに、近代の出家皆あらぬ事を取持ち、殊勝柔和になりたがり、道を成就する者なし。~中略~ 武士たる者は、忠と孝とを片荷にし、勇気と慈悲とを片荷にして、二六時中、肩の割入る程荷ふてさへ居れば、侍は立つなり。~中略~ 又常に氏神に釣合うて居るべし。運強きものなり。又慈悲といふものは、運を育つる母の様なものなり。無慈悲にして勇気ばかりの士、断絶の例、古今に顕然なりと。〔聞書第六〕
(湛然和尚が日ごろの教訓につぎのようにいっておられた―。
僧は慈悲を表面にして、内心にはあくまで勇気を貯えていなければ仏法の道を成就することはできない。また武士は勇気を表面にして内心には腹の破れるほどの慈悲の心を持っていなければ、武士としての務めを果たすことはできない。
従って僧は武士に交わってその勇気を学び、武士は僧にたよって慈悲心を学ぶのである。自分は数年の間、諸方を修行に歩いていたが、その間、高僧といわれる人にあって修行のたすけとなったことは一度もない。そこでどこへ行っても勇士がいるとさえ聞けば道中の苦労もいとわず訪ねていっては武士道の話をきいたが、これが仏道修行の助けとなったことは、はっきりとおぼえがある。~中略~
ところが近ごろの僧たちは、みな見当ちがいのことに熱を上げ、ひたすら穏やかに行儀よくすることばかり考えているから、真の仏道を成就することができないのである。~中略~
武士たる者は忠と孝を片荷に、勇気と慈悲を片荷にして、四六時中、肩がわれるほどに負っていれば、その本分はつくせるものである。~中略~
また、常に氏神を信心していれば運がつよくなるものである。
慈悲の心は運を育てる母のようなものであって、勇気ばかりはあっても慈悲心のない武士が破滅することは古今の例によって明らかである、と。)
<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
一人の人間として
しっかり生きるには
強さ、前向き、積極、能動
力、執着、志、憤り、情熱など
これらの心構えが求められるのでしょう
一方で
思いやり、信仰心、愛、援助
情け、敬、承認、修正、誠意
修身、自省、慎独などが無ければ
低次元の争いを繰り返しかねません
戦国時代の戦いは何のためだったのでしょう。
欲や国防のためだったのでしょうか。
当時の戦い
そこには慈悲の心が見て取れます
土佐、一時は四国全体を統一した戦国大名長宗我部元親は、織田信長に降伏した後、豊臣秀吉の九州征伐に従軍します。
ところがそこで、文武に優れ人望も厚いとされた長男の信親を失うことになります。
その後、信親を討った島津軍は、戦いの場で大太刀を振るい、相手を圧倒する戦いを見せた信親の遺骸を父親である元親のもとへ帰したとのこと。
島津軍の敬意が察せられます。
戦国時代には
仁義礼智信
そして慈悲を重んじた
戦いがあったのでしょう
21世紀入り後
世界は争いの機運
その度合いが高まっています
そこに慈悲はあるのでしょうか
二宮尊徳は、天道と人道を明瞭に区分しています。
天は生気あるもの全てを発生させるため、任せておけば田畑は荒地のままでしかない。
そこで人道では、その天理に従いつつ、人の身に便利なものを善として、不便なものを悪とするとしています。
戦国時代の戦いとは、人道の延長線上に位置するものだったのでしょうか。
戦いの中での
武士の振舞い
観念の域ではなく
この世における
究極の慈悲の実践