人情の識有り、物理の識有り、事体の識有り、事勢の識有り、事変の識有り、精細の識有り、濶大の識有り。此れ皆兼ぬべからざるなり。而して事変の識は難しと為す、濶大の識は貴しと為す。〔事体〕
(事体の識。表面に現れたものではなくて本体を掴む。すべて物事には現象と内容の両面があって、表面に現れるほど認識しやすいけれども、それは文字通り皮相であります。それに比べて内容は、ことに本体ほど奥深く隠れておるから、これはなかなか把握することが容易でない。)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
本体に気づかず皮相に溺れると
全てが台無しになります
誰もが、美しく絢爛豪華な城屋敷に憧れますが、それはいかにして造られたのか、どういう意味を持っているのか、どういう歴史や背景があるのか。
自分で観察を行い、五感を駆使し、洞察し、本体を掴まねばなりません。
20歳代、会社員のころ、活躍中のデザイナーの方々によるパネル・ディスカッションを観覧しました。
綺麗で格好良く、おしゃれなデザイナー数人が語り合うのですが、ある一言に耳を奪われました。
「皆さんから見れば華やかに映るかもしれませんが、日々闘いの連続です。
白鳥が、美しく水面を滑るように移動できるのは、涼しげな見てくれとは裏腹に、水面下で必死に水をかいているからですよね。
まさに、私たちも早朝から夜遅くまで仕事一筋、必死です。
それが生きていく手段だから。」
センスがあれば、アイデアが良ければ、華やかな世界に行けるものと考えていたのですが、それは全く違う。
いま、自分がやっている泥臭い仕事、その延長線上こそが、自分が立つ場所になるということ。
それを気づかせてくれました。
“ わが道は、平地の村落のいなかくさいのに似ている。愛すべき風景もなく楽しむべき雲や水の姿もないけれども、百穀がわき出るのだからして、国家の富源はここにあるのだ。 名僧知識と言われる人の清浄さは、たとえば浜の真砂のようなもの、われわれの仲間はどろ沼のようなものだ。けれども蓮の花は浜の砂には生じないで、どろの中から生ずる。
大名の城が立派なのも、市中が繁華なのも、その財源は村落にある。だからして、至道は卑近にあって高遠なところにはなく、実徳は卑近にあって高遠なところにはなく、卑近にみえるものが決して卑近でないという道理を悟らねばならぬ。 ”
<引用:『二宮翁夜話』福住正兄 原著 佐々井典比古 訳注 致知出版社>
道理は不変のものです
皮相に飛びついて
利を得るにも苦労はあるでしょう
しかし
残念ながら
その栄華は
あっという間に
朽ちてしまいます
生きて
そして死ぬまで
意義ある行いを続けたければ
“ 本体 ” を掴みとり
日々それに取り組むことです
およそ世の中は
知恵があっても学があっても
至誠と実行とでなければ
事は成らぬものと知るべきだ
<引用:同上>