善く建つる者は抜けず。善く抱く者は脱ちず。子孫以て祭祀輟まず。之を身に修むれば、其の徳乃ち眞なり。之を家に修むれば、その徳乃ち餘あり。之を鄕に修むれば、其の徳乃ち長ばる。之を國に修むれば、其の徳乃ち豐かなり。之を天下に修むれば、その徳乃ち普し。故に身を以て身を觀、家を以て家を觀、鄕を以て鄕を觀、國を以て國を觀、天下を以て天下を觀る。吾何を以て天下の然るを知るや。此れを以てなり。〔善建不拔章第五十四〕
(しかと打ち建てた徳というもの、これは抜けることがない。粗木のままをしかと抱いておれば、これは脱落することがない。
道はあるとも見えないけれども、永久に存在する。それはちょうど子孫があれば先祖の祀りが絶えることがない、それと同様である。道をわが身に修めれば、その道の効果というものはほんものである。
わが家に道を修めれば、道による恵みはあり余る。
一つの村に道を修めれば、道による功徳は、みなから尊ばれるであろう。
道を一国に修めれば、道による恵みは豊かなものになる。道を天下に修めれば、道による恵みは天下のすみずみまであまねくゆきわたる。
だから、自分一人の体でもって他人の体のことがみてとれる。
自分一家のことで他人の家のことも推し量ることができる。自分の村一つで、よその村すべての様子が推し量れる。自分一国で、よその国のことも同様に推し量ることができる。
それを天下に推し及ぼすことで、天下の様子もわかる。
天下の様子が、どうしてわたしに知れるのか。
それは道というもの、自分の体から天下までを一貫している道というものの性質によってそういうことが知れるのである。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
“ 徳 ” を心棒としたら抜けない
人は、徐々に “ 徳 ” を身につけます。
それに従って段々世の中が見えてきます。
“ 徳 ” を身につけることで “ 道 ” の深層に一歩近づけるのでしょう。
“ 徳 ” は後戻りしません。
“ 徳 ” の修得は前進あるのみです。
だから、“ 徳 ” の扉を一度開けば、その人の人生は間違いなく深まっていくでしょう。
ところが、“ 愛 ” はそうはいきません。
愛はやがてさめるもの
愛によって結ばれた二人は、ある時期から二人の間に “ 徳 ” を置くことで、末永く添い遂げられるのでしょう。
~愛とは、お互いを見つめ合うことではなく、お互いが同じ方向を見つめることである~
(Love does not consist in gazing at each other, but in looking together in the same direction.)
(『星の王子さま』の作者サン=テグジュペリ)
欧米の離婚率は昔から日本より高かったのですが、この違いは “ 徳 ” の有無の差ではないでしょうか。
そして近年の日本における離婚率上昇の一因もまた、“ 徳 ” の欠落ではないでしょうか。
さて、 “ 徳 ” ですが、老子においては仁義礼智信ではなく、ここでは無欲に近いものと解説されています。
“ 足るを知る ” と言っても良いでしょう。
足るを知れば、自らの徳は本物であり、家として認識すれば恵みが多くなる。
それを村、一国、天下に広げていけば、天下隅々まで恵みが行き渡るというのは、確かに納得できます。
“ 足るを知る ”
これを楽しむこと
『少女パレアナ』(エレナ・ポーター著 角川文庫)という物語を読みました。
牧師を父に持つパレアナが、なんでも喜ぶゲームによって、周囲の人たちに喜びを植え付けていく話です。
“ 「あたしがね、お人形を欲しがったもんで、お父さんが協会本部へ頼んでくだすったんですけどね、お人形がこないで松葉杖がきちゃったの。係の女の人の手紙にはね、人形がないから杖を送る、だれか杖のいる子もあるだろうからって書いてあったのよ。そのときから遊びが始まったの」
「ゲームはね、なんでも喜ぶことなのよ。喜ぶことをなんの中からでもさがすのよ ~ そのときすぐ、杖から始めたの」
「だからさ、杖を使わなくてすむからうれしいの」 ”
このときからパレアナは、どんなときでも、つらい境遇の中でも喜びを見つける“ゲーム”を行うようになったのです。
周囲の目には、パレアナはまるで天使のように映っています。
一つの事象から気づきを見出す
“ 足るを知る ” ことは
自らを深く知ること
自らの幸せに気づくこと