日間の瑣事は、世俗に背かざるが可なり。立身・操主は、世俗に背くが可なり。〔晩二四八〕
(日常の細かなことは、世間の風俗に反しないようにするのがよい。しかし、立派な人になろうと目標を立て、自分で節操を守って行うときは、世俗に反するところがあってもよい。)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
感覚で理解できますが
具体的にはどういう心構えなのでしょう
ややもすると
偏屈者の戯言でさえ
立身の道となりかねないのでは
日常の行動では、例えば書物を誰かに渡すとき、相手が読める向きにして渡します。
同様に刃物を渡すときも柄の方を相手に向けます。
これらは親切な行為であり、相手を敬う道徳心です。
数え上げればきりがありません。
呼ばれれば返事をする、食事のときには手を合わせていただきますと言う、
手を後ろで組まないこと、ポケットに入れたままにしないことは、武器などを持っていない丸腰の証。
挨拶をすることは、相手への尊敬と協調の印となるでしょう。
これらのことは、立派な人物になるために不可欠な心掛けであるはずです。
よっておそらく、きちんとしている人は、立派な人までいかずとも、まともであることは間違いないでしょう。
これを土台として、ここから分岐するのではないでしょうか。
誰彼ともなく、たくさんの人に、のべつ幕なし、「こんにちは」と言い続ける人は滅多にいません。
挨拶は、それ自体の量には価値が見いだせないようです。
しかし知識は違います。
知識となると、まるで物知りとでも言われたいのか、人は量を求めます。
知識の量には価値が認識されているようです。
少々強引かもしれませんが、挨拶も知識もともに、その根本は身を守るため、安全に生きるためという目的があるはずです。
にもかかわらず、過去に軽んじられていた“物知り”が近年では重視され、他方、返事をすることや挨拶をすることなど道徳としてあるべき行為が軽視されてきているようです。
『二宮翁夜話』で二宮尊徳(金次郎)は
「才智は道徳に遠い」とし
「道徳の本理は才智では理解でいないもの」とのこと
また「遠きをはかる者は富む」とも
知識ある者は眼前の利益を
上手に得るでしょう
その行為を多くの人が
真似るでしょう
しかしその行為は将来のために
種をまく行為ではなく
刈り取るだけ
やがて困窮することが道理
一方
遠きをはかる者は
刈り取りしかも種や苗を植える
将来においても実を得ることができる
私たちは
将来に向けて
何を植えるべきなのでしょう
それを真剣に考えて
実行し
この国の永続に貢献したいものです
修養を重ねるうち
その言動に他者との微かな違いが現れ
そしてそれが世俗に反するように映る