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COLUMNSブログ「論語と算盤」

内への光

2023年9月12日

天下始め有り。もって天下の母とす。すでに其の母を得て、以て其の子を知る。既に其の子を知り、また其の母を守れば、身を没するまであやうからず。そのくちふさぎ、其の門を閉ずれば、身を終うるまでつかれず。その兌を開き、その事をせば、身を終うるまで救われず。小を見るを明とう。柔を守るを強と曰う。其の光を用いて、其の明にふくすれば、そのわざわいを遺す無し。これを襲常しゅうじょうう。〔天下有始章第五十二〕

(天下のものにはなんらかの出発点がある。それが天下の母である。

 母の存在を知って、しかるのち、その子どもの存在が知れる。つまり、造物主というものの存在を知って、子どもである万物、それの存在が知れる。

 子どもである万物の有の世界の存在を知りながら、振り返ってその生み手である母なる造物主、それを大切に守るならば、死ぬまで危うい目には合わないであろう。

 自分の口を塞ぎ、家の門を閉じる。つまり目に見える世界との接触点、そういう感覚の世界との接触点、それを自ら閉じるならば、死ぬまで疲れることはない。

 それを逆に、自分の口を開き、家の門を開き、つまり外の世界、感覚の世界との接触点を開いて、仕事をどんどん増やしていくならば、これは一生救われることがない、疲れはてる。

 極微の世界に見入る能力を明という。そして力はありながら、それを用いないで柔らかな状態を守る、これを強という。

 外に向かう光を用いることもできるのに、それをしないで、内なる明らかさに復帰する。言い換えれば、外に向かって力を振い得るのに、内なる柔らかさに復帰する。そういうふうであれば、わが身のわざわいをあとに遺すことはない。)

<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>

 

 

 

 

自らのさい(天賦の才)を外へ発せず

内への光とする

 

外に対して自らを閉ざす

 

 

 

本田濟氏の解説によると、保身の術としての語りであろうとのことです。

 

 

現代は、せっかく一回の生を授かったのだから、自分の可能性を信じて、夢や理想に向かって一所懸命挑戦していく、自らの生を燃やし尽くす、そういうことがもてはやされます。

 

かくいう私も、そういう気風の中で育ってきた一人なのでしょう。

 

 

 

しかし近年、社会の雰囲気が徐々に心の時代へと移行しているようです。

 

それは、誰もが認識できる明らかな流れの変化ではないかもしれません。

 

しかし、その兆しは感じられます。

 

そしてそれは受動的なものではなく、能動的、積極的な意思をもとにした変化と捉えられます。

 

 

 

 

 最近よく引用させていただく安岡正篤師の書に次のような記載があります。

 

「さて所謂いわゆる歴史、特に文化史を通観つうかんする時、これを大きく三分する事が出来るように思う。第一、吾々人間がまだ素朴純真な時代、信仰心の盛んな時代、志有る人が神仏といった理想の姿、完全な理想像を体感し念ずる、そしてそれに帰依しようとした時代、そこに生甲斐を発見した時代がある。たとえて言えば、~(中略)~病が篤くなっても、死の恐怖よりむしろお迎えが来たか、と感ずることが出来る魂、これは確かに人間歴史上の代表的な魂であると言わねばならぬ。これに対して人間が理性的、思索的になり、現実の自覚が深まり、現実を解脱して、理想に没入するよりも現実に立って、理想を標榜しつつ現実を生かして行こうとする時代がある、更に下ると理想を追求して、そこに帰入没入するのでもなく、又理性的に現実の中に理想を実現しようとするのでもなく、ひたすら現実にのみ執着する、所謂享楽主義の傾向の強い時代があると考えられる。」

 

<出典:「活學 第一編」安岡正篤著 致知出版社>

 

 

 

 今、私たちは

  三番目の時代から

   次へ移ろうとしている

    その時かもしれません

 

 

 

 

~ 日本を今一度、洗濯いたし申し候 ~

         (坂本龍馬)

 

 

 

 

私たち人類は今一度

 

心を洗濯すべき時に

 

直面しているのでは