人は厚重を貴びて、遅重を貴ばず。真率を尚びて、軽率を尚ばず。〔晩二四六〕
(人は温厚で重々しいのを貴び、動作が遅鈍であるのを貴ばない。また、正直で飾り気のないのを貴ぶが、軽々しい行いは貴ばない。)
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
我々は似て非なるものを峻別する見識を養わねばならない
(監修渡部五郎三郎氏の解説より)
人間においては、その貴賤はもとより、考え方や深層にある動機、真心や誠意の度合いを見定めることができるかどうかです。
人は生きていくため、どうしても誰かと仲間になることがあります。
そのとき、軽々しく近寄ってはなりません。
よくよく慎重に、吟味して、見定めることです。
では、どこで見定めればよいのでしょうか。
目印は、ありません。
だからこそ、常日頃の人間観察が重要です。
また、読書によって書物から得られる知恵も有益です。
良い人物と思って近づいていくうち、だんだん本性が見えてくることもあります。
他方、異論や反論ばかり言うので避けていたら、あるときその奥深さや洞察の鋭さに感心させられることもあります。
そこで興味を持って近づくと、単に聡明なだけで芯のない軽率さが露呈したりすることもあります。
かように、人の本性を見抜くことは容易ではありません。
なんとなれば、人は時節によって変化することもあるのです。
できることはただ一つ
自らが不動であること
江戸城開城の交渉で、幕府側の勝海舟は、交渉相手の西郷隆盛の人物像を次のように述懐しています。
「~(略)この時、オレがことに感心したのは、西郷がオレに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の時にも、始終坐を正して、手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するというようなふうが見えなかったことだ。その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊(大空と海が広々としている様から転じて、度量が大きく、こだわりのないこと)で、見識ぶるなどということは、もとより少しもなかった。」
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
自らを高めることでしか
似て非なるものを峻別することはできないのでしょう
自らを修養することしかありません
一人でも二人でも
そういう人が増えることを信じ
この国の先々の安寧を願います