元茂公(注・勝茂の子、すなわち直茂の孫。小城に鍋島支藩を創始)へ直茂公(注・藩祖)御話に、「上下によらず、時節到来すれば家が崩るるものなり。その時崩すまじきとすれば、きたな崩しをするなり。時節到来と思はゞ、いさぎよく崩したるがよきなり。その時は抱え留むる事もあり。」と仰せられ候由。月堂様(注・元茂のこと)御話を、禅海院殿(注:元茂の次男)聞き覚え候由なり。
(小城の支藩に封ぜられた元茂公に、祖父君・直茂公がおっしゃったこと。
「身分が高かろうが低かろうが、家と言うものは、いつかは滅びるものだ。そのとき、滅ぼすまいとして悪あがきすれば、みにくい滅び方をする。滅びるときがきたら、いさぎよくつぶすがよい。そう覚悟すれば、防ぎとめることもあろう。」
元茂公のお話をご次男がきかれたのだそうである。)
<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
いさぎよくつぶす
清々しい響き
しかし、言うは易し、行うは難し
自分が生まれ出た家をつぶさざるを得ない状況
それは次の2つの要因からでしょう。
一つは、家を犠牲にしてでも自らの志に進むとしたとき
もう一つは、精神的な怠け心からつぶすとき
前者はさらに、利己的な志か利他的な志かに分かれます。
ただ、そこに到るまで、人は逡巡するものです。
建前が煩わさせます。
あのお家をつぶしたのは誰だという
他人の目線
祖先に報いられない情けなさ
その呵責
今日の言葉は、つまらぬ迷いや思い込みは捨て、己の使命や時の流れにもとづき、思い切った覚悟をしておけということでしょう。
その覚悟があれば、防ぐこともできると。
二宮尊徳も自身の使命を感じ、覚悟を決め、迷いを断ち切っています。
小田原候、大久保忠真の委任を受けた折の心情です。
「ここに憂うべきことが一つある。私は極貧の家に生まれ、孤児となってから、一家の廃亡を興し父母祖先の霊を安んじたいと念願し、昼となく夜となく心力を尽し、その始め一俵の米を種としてついに廃家を興し、祖先の田地を回復し、いささか追孝の道を立てることができた。ところが全く思いがけないことに、君公の知遇を受け、宇津家の領村を旧復せよとの命令を受けてしまった。いま忠を尽そうとすれば当然この家をつぶし、不孝に陥るであろう、孝を全くしようとすれば君命を無にし忠義を全くすることができない。古今、忠孝を二つながら全くすることの困難を憂えることも、まことにもっともだわい。」
と、胸のあたりを撫でて黙慮すること、やや久しかったが、翻然として悟って言った。
「ああ何を憂い何を惑うことがあろうか。元来忠孝は一つの道であって、二つの道があるのではない。ひとが至孝であるときは忠はおのずからその中にあり、至忠であれば孝もまたその中に存するのだ。君命を受けない前は、一家を興し祖先の祭祀を永く続けることを孝行としていた。ひとたび君の知遇を得て衆民を安んずる命令を受けた以上は、この民を安んずることこそ孝行であろう。もし仁君の命令を無にし、かりに億万の財を積み一家を繁栄させて十分の祭祀を尽しても、父祖の霊は必ず不孝の子と見なすであろうこと、明らかである。取るに足らぬ一家を廃し、万民の疾苦を除き、上は君の心を安んじ、下は衆民の生活を安んじたならば、父祖の本懐これにまさるものはあるまい。一家を全くしようとすれば万家が廃する。万家を全くするために一家を廃する。それとこれと、同日の論ではない。よし、決心はきまった。」
すぐに祖先の墓に参り
合掌してこの旨を報告したとのこと
<出典:「報徳記」富田高慶 原著 佐々井典比古 訳注 致知出版社>
一に生きる
この覚悟