祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。子曰わく、吾祭に與らざれば、祭らざるが如し。
(先師は、先祖を祭るには、先祖が眼の前にいますように、神を祭るには、神が眼の前にいますように心をこめて祭られた。
そしてよく言われた。「私は親ら祭りに当たらなければ、祭りをしたような気がしない」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
日本各地で神様や先祖をお祭りする行事が行われ、その土地の文化を守りながら、新しい風情さえも生み出しているようです。
このような慣習が根付いて永続しているのは、心の有り様が崇高で真摯であればこそと感じます。
一方、自分を顧みると、自宅では神様とご先祖にお祈りしていますが、生まれ故郷の高知を出て40年近くになり、地域のお祭りに接する機会はめっきり無くなっています。
たまに帰省したときにお墓参りに行きますが、昔、祖母や母が一つ一つの墓石に語りかけながら水や花を供えていた姿を思い出します。
ところで、お正月の初詣をはじめ、神社仏閣で多くの方が手を合わせてお祈りする姿を見ていますと、本当に様々です。
目をつむって一心不乱に念じる人、あっさりと手を合わすだけの潔い(?)人、祈るというより自分自身に言い聞かせているような人、困難の渦中にいるのかはたまた欲深いのか(笑)、かなり長い間佇んでいる人、・・・。
30代半ば、会社員を辞して独立した頃から祈るようになりました。独立と言えば聞こえが良いかもしれませんが、実態はそんな綺麗ごとではなかったのです。
どんな状況になっても家族を養っていく、幸せにしなければという思いも押し寄せていました。
日々、語りかけるように祈っているうち、やがて自分の祈っている言葉が曖昧で漠然としているのではないか、これでは神様も手の打ちようがないだろうなと感じ始めました。
うまくいきますようにという願い、将来への心配、杞憂も含め、心の整理ができていなかったのでしょう。
一体自分はどうなりたいのか、自分の根っこは何を望んでいるのか、心の奥底ではどう生きていきたいと願っているのか、客観的な目線ではなく自分自身の本音について考えるようになりました。
そんな風に考えるうち、祈りの言葉が絞り込まれてきたことに気付きます。
そしてやがてそれは、お願いとして棚上げすることではなくなりました。
具体的には、自分がなすべきこと、自分が背負って動くべきこと、役に立つための行い、というような意味合いに変化してきたのです。
神様やご先祖に依頼するのではなく、心の奥底にある思いを活かすために自らが行わねばならぬこと、そしてそれを「やりますので」と報告する、祈りはそのような時間になってきました。
最初は「困った時の神頼み」と言われても仕方ない状況でしたが、
今は、自分を自分たらしめる心、その心の深い部分に通じる祈りになっていると思います。
祈りは、自分と対峙するための重要な時間です。