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COLUMNSブログ「論語と算盤」

心に身を

2021年7月6日

營魄えいはくを載せいつを抱き、く離るることなからんか。氣をもっぱらにしじゅういたし、能く嬰兒えいじごとくならんか。滌除できじょ玄覽げんらん、能くきずなからんか。

(自分の体の上に魂魄を載せる。それも魂が主体になって、その上に魄を載せる。その魂と魄とこれを一つに合わせて、これを一つに包み込んで、この魂と魄をよく分離させないでおれるであろうか。

そうあるのが望ましい。

 それには、まるで赤ん坊のように、まだ知恵のない赤ん坊のように気力だけに満ち満ち、しかも体全体がこの上もなく素直である。そのようであれば、魂魄を一つに合わせることができるであろう。

 こころの垢を洗い流し、それから物事の奥底まで見る、しかもよくありがちな差別、本体と現象との間に価値の差別をもうけるという、そういう差別の心を持たない、そのようであるならば、一を抱くということができるであろう。 ~載營魄章第十より抜粋~)

<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>

 

 

冒頭の營魄ですが、營は精神的な要素であり魂のこと、魄は肉体的な要素をさすようです。

 

 両者どちらも欠かすことはできませんが、魄を主体としてその上に魂(營)を載せているのは衆人や俗人であり、逆に魂(營)を主体として魄をその上に載せるのであれば、それは聖人としています。

 

 そして、両者を一にして抱くためには、赤ん坊のように気力が満ちて体も素直な状態であることが必要であると。さらに、事物の根底にある真実を見つめたとき、通常なら生まれる差別の心さえ持たないことも必要であると。

 

 

 赤ん坊のように、知恵は無くとも生きる気力が充満している状態で、精神を軸として肉体を扱うことができれば、色んな可能性を見つけられ、そこから様々な生き方ができるように感じます。

 

 

 短い人生を振り返ると、画一化された価値観や生き方に縛られてきたのではないかと自省していますが、ここ数年、世間では少しずつ多様な生き方が広がってきているように思います。

 

 例えば、農業、林業、水産業など、天からの恵みをきちんと育んでしっかり活かすような分野に身を投じる人たち、特にそのような若者がちらほら見受けられます。

 

 高度成長の経験や経済重視の視点からは、このような現象に不安を感じる向きもあるでしょう。

しかし、もし老子の言うような天の働きによって私たちが生かされているのであれば、実は天道に沿った方向、つまり「あるべき姿」に向けて、気づかぬうちに私たち自身が軌道修正し始めているのかもしれません。

 

 

 十代のころに思っていたことがあります。それは、たまたま今は経済重視社会だけれども、哲学重視社会だってあり得るだろうという考え方です。

衣食住を確保して生活していくためには、市場取引という経済活動は不可欠ですが、そんな中で最重視されるのが、例えば芸術の分野、身体力の分野、哲学の分野などという状態があって当然です。

 

 

 20万年前に誕生したという私たちの祖先であるホモ・サピエンス、1万年前には農耕が生み出され、180年くらい前には産業革命が生じています。

 そして、20世紀末からのIT革命の進展など、近視眼的には進化の速度が速まって見えます。

 

しかし、大きく長期的なスパンで見た場合、人類そのものの変化はほとんど感じられません。

 

 

天の計らいに思いをはせ、その上で自由かつ多様に生きる。

 

それには、精神(魂)を打ち立てた上で、肉体(魄)を用いて進まねばなりません。