ある人いふ、意地は内にあると外にあるとの二つなり。外にも内にもなきものは役に立たず。たとへば刀の身の如く、切れ物を研ぎはしらかして鞘に納めて置き、自然には抜きて眉毛にかけ、拭いて納むるがよし。外にばかりありて、白刃を不断振廻はす者には人が寄り付かず、一味の者無きものなり。内にばかり納め置き候へば、錆も付き刃も鈍り、人が思ひこなすものなりと。〔聞書第二〕
(ある人のいったことであるが―。
意地というものは、心の内に秘めておく場合と、外にあらわす場合とがある。内だけでも、外だけでも、ともに役に立たない。
たとえば刀のようなもので、ふだんはよく刀身を研ぎすまして鞘に納めておき、ときには抜いて手入れし、よく拭ってまた鞘に納めるのがよい。抜いてばかりいて、いつも白刃をふりまわすような者には人が寄り付かず、味方もなくなってしまうであろう。だが、いつも鞘に納めたままにしておけば、錆がつき、切れ味も鈍くなり、人から軽蔑されるようになるものだ、と。)
<出典:「続 葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
意地を張ること
あまり褒められません
偏屈者や狭量な奴と見られがちです
世間を見渡すと意地を張る人が少なくなったように感じます。
時代の流れとともに、人が大人しくなってきているようです。
弱者を救うためには、暴力や狼藉を排除する必要があるため、仕方ないのかもしれません。
しかし、確かに「弱きを助け」の社会に近づいている様子ではあるものの、「強きを挫く」力がどんどん萎えてきていませんか。
世の流れに従順になろうとするのは危険です。
大勢に従うのなら
誠実さや正直さを少しずつ
犠牲にしていくしかありません
人からの非難を避けようとするなら
心の隙間に邪悪が入り込みます
やがて自己保身が過ぎて
飛んでくる火の粉を避けようと
盲目の如く悪党の僕となります。
「パスカルは “ 正義が強いか、強い者が正義か、正しい者が強くなるか、強い者が正しくなるか、より外に人間は救われない ” と言うておりますが、救われるためにはどうしても善人が強くならなければいけません。強くなるためには、感情的・感傷的にならずに、線が太くならなければいけません。」
<引用:「安岡正篤一日一言」安岡正泰監修 致知出版社
七月十七日より>
黙って大勢に従うのは邪悪です
人物の線を太くして
善心の刀を磨き続けなければなりません
なんとなれば
~ 優しくなければ生きていく資格がない ~
とする前提は
~ 強くなければ生きていけない ~
なのですから
<レイモンド・チャンドラー(米国人作家)>
善心の鞘に納めている刀
錆びついていませんか