人は苦楽無き能わず。唯だ君子の心は苦楽に安んじて、苦あれども苦を知らず。小人の心は苦楽に累わされて、楽あれども楽を知らず。〔晩録二四二〕
人は誰でも苦楽がないことはない。ただ、立派な君子の心は苦楽をそのまま受け入れて安んじているから、苦があっても苦しむことを知らない。一方、小人の心は苦楽に煩わされているから、楽があっても楽であると気がつかない。
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
与えられた環境を受け入れ
その中できちんと生きている人は
苦を苦と感じることなく
日々を丁寧に過ごせるのでしょう。
しかし
他人と比べたり
果てない欲を満たそうと
苦に煩わされている人々は
目の前にある楽を見逃します
普通は不幸が人間を苦しめるというが
よく考えてみると
人間を苦しめるのは不幸そのものではなく
不幸だと思うその考え方自体である
<引用:「平澤興一日一言」平澤興著 致知出版社
十月十八日より>
二宮尊徳の視点は、高く、広く、奥行きがあり、長期的でもあります。
強欲な領主に仕える、常州(茨城県)真壁郡辻村と門井村の二人の名主に諭す話です。
領主は経済に疎く負債が増えており、租税の先納、さらに御用金と称して下民の財を搾り取っていました。
尊徳は、窮状を訴えに来た二名の名主に対して次のように諭します。
万物には全て盛衰がある。
国にも、家にも、人にも。
いま、二名の村は衰える時であり、領主は費用が足りず、村民から税をせしめているのであろう。
しかし、過去には村民の祖先が受けた大恩もあるはず。
であれば、いまの時の流れを甘受し、領主に全て献上するのが道理というもの。
よって、名主の二人が家を廃して領主に差し出し、乞食の生活に甘んじる旨を伝えよ。
そして、このような状態が続けば、村民は村から逃げ出してしまう恐れがあると。
そうなると、今後租税を取れなくなり、領家の災いはますます深くなるのではないかと嘆願するのだ。
いま、家財を持って逃亡した者を当地が受け入れると、その領主に対して信義の道が立たない。
また、衰運で滅びる原因を抱いた者にどんな幸福を与えても、その原因が尽きることなく廃亡に及ぶこと、天理自然で疑いがない。
しかし、領主への報恩として一家一物も余さず捧げ、すっからかんになってから来るのであれば一向に差し支えない。
さらに、それは滅びようとする因縁が消滅した状態であり、新たに幸福を与えれば必ず再栄すること疑いない。
この話を聞いた二人は感動し、従うこととした。
しかし一人は私心を捨てきれず、財を出すことなく領主を恨み続けたことから、追放されて家を失い逃亡することになった。
もう一人は尊徳の言に従って対応したところ、租税徴収の役人は何度も黙って引き返すしかなかった。
結果、この名主の家は亡滅の禍を免れ、一家を保全できたとのことである。
この仕法について問われた尊徳は、易経の次の言を引き合いに答えた。
同声相応じ、同気相求む。
水は湿えるに流れ、火は燥けるに就く。
雲は龍に従い、風は虎に従う。
(文言伝)
大風が起これば、木に触れて、揺り動かしてやまないが、その木を伐ってしまえば、いくら暴風でもこれに触れることができないのは自然の道理。
強欲な領主に対して同じく欲で応じたら、ぶつかって滅亡する。
しかし、欲を伐って私念を捨て去れば、さすがの強欲もこれには触れられない。
自然の道理は過去と未来を問わず、自ずから明らかである。
と。
天道を踏まえた処し方で
苦の中に真の楽を見出す
いかに生きるか