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COLUMNSブログ「論語と算盤」

苦楽

2023年7月7日

人は苦楽無きあたわず。だ君子の心は苦楽にやすんじて、苦あれども苦を知らず。小人の心は苦楽にわずらわされて、楽あれども楽を知らず。〔晩録二四二〕

人は誰でも苦楽がないことはない。ただ、立派な君子の心は苦楽をそのまま受け入れて安んじているから、苦があっても苦しむことを知らない。一方、小人の心は苦楽にわずらわされているから、楽があっても楽であると気がつかない。

<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>

 

 

 

 

与えられた環境を受け入れ

その中できちんと生きている人は

苦を苦と感じることなく

日々を丁寧に過ごせるのでしょう。

 

 

しかし

他人と比べたり

果てない欲を満たそうと

苦に煩わされている人々は

目の前にある楽を見逃します

 

 

 

 

普通は不幸が人間を苦しめるというが

よく考えてみると

人間を苦しめるのは不幸そのものではなく

不幸だと思うその考え方自体である

 

<引用:「平澤興一日一言」平澤興著 致知出版社

十月十八日より>

 

 

 

 

 二宮尊徳の視点は、高く、広く、奥行きがあり、長期的でもあります。

 

強欲な領主に仕える、常州(茨城県)真壁郡辻村と門井村の二人の名主にさとす話です。

 

 

領主は経済にうとく負債が増えており、租税の先納、さらに御用金と称して下民の財をしぼり取っていました。

尊徳は、窮状を訴えに来た二名の名主に対して次のように諭します。

 

 

万物には全て盛衰せいすいがある。

国にも、家にも、人にも。

いま、二名の村は衰える時であり、領主は費用が足りず、村民から税をせしめているのであろう。

しかし、過去には村民の祖先が受けた大恩だいおんもあるはず。

であれば、いまの時の流れを甘受かんじゅし、領主に全て献上するのが道理というもの。

よって、名主の二人が家を廃して領主に差し出し、乞食こじきの生活に甘んじる旨を伝えよ。

そして、このような状態が続けば、村民は村から逃げ出してしまう恐れがあると。

そうなると、今後租税を取れなくなり、領家の災いはますます深くなるのではないかと嘆願たんがんするのだ。

 

いま、家財を持って逃亡した者を当地が受け入れると、その領主に対して信義の道が立たない。

また、衰運すいうんで滅びる原因を抱いた者にどんな幸福を与えても、その原因が尽きることなく廃亡に及ぶこと、天理自然で疑いがない。

しかし、領主への報恩ほうおんとして一家一物も余さず捧げ、すっからかんになってから来るのであれば一向に差し支えない。

さらに、それは滅びようとする因縁が消滅した状態であり、新たに幸福を与えれば必ず再栄さいえいすること疑いない。

 

この話を聞いた二人は感動し、従うこととした。

しかし一人は私心を捨てきれず、財を出すことなく領主を恨み続けたことから、追放されて家を失い逃亡することになった。

もう一人は尊徳の言に従って対応したところ、租税徴収の役人は何度も黙って引き返すしかなかった。

結果、この名主の家は亡滅のわざわいを免れ、一家を保全できたとのことである。

 

 

 この仕法について問われた尊徳は、易経の次の言を引き合いに答えた。

 

 

同声どうせい相応じ、どう相求む。

水は湿うるおえるに流れ、火はかわけるにく。

雲は龍に従い、風は虎に従う。

         (文言伝)

 

 

大風が起これば、木に触れて、揺り動かしてやまないが、その木をってしまえば、いくら暴風でもこれに触れることができないのは自然の道理。

 

強欲な領主に対して同じく欲で応じたら、ぶつかって滅亡する。

しかし、欲を伐って私念を捨て去れば、さすがの強欲もこれには触れられない。

 

自然の道理は過去と未来を問わず、自ずから明らかである。

 

と。

 

 

 

 

天道を踏まえた処し方で

 

苦の中に真の楽を見出す

 

いかに生きるか