人は恥無かるべからず。又悔無かるべからず。悔を知れば則ち悔無く、恥を知れば則ち恥無し。〔晩録二四〇〕
(人間には恥を知るということがなくてはいけない。また、悔い改めるということがなくてはいけない。悔い改めることを知っておれば、悔い改める必要はなくなるし、恥を知ることを心得ておれば、恥をかくということがなくなる。)
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
“恥”は知らねばなりません。
恥を知らない行為をすれば
信頼を失います。
では、恥とは一体何なのでしょう。
ボロを着ていることですか
汚れる事をすることですか
以前、テレビで外国の母娘が美容整形外科でインタビューを受けていました。
母は「この娘を連れて街を歩くのは恥ずかしい。だから整形させるために来た」と。
娘は不安そうに、申し訳けなさそうにうつむいたままです。
この母の言う「恥」は
本当に「恥」ですか。
違うでしょう。
では、本当の恥とは何ですか。
本当に恥ずべきことは、周囲の目や表層的な価値観に振り回され、その“オメガネ”に適うよう取り繕うとする、まさにこの母親のさもしい考え方そのものです。
ある街は、とても綺麗になったそうです。
ごみ一つ落ちていない、先進的な街・国だそうです。
しかし何か違和感があります。
強制的にそうさせられている強迫観念、仮に何か汚してしまうと警察に連行されかねない緊張感が漂っています。
恥は人間関係において指摘されますが
その本質は
天、神に見せられる行為か否かで
決まるものです
古くから“恥”とされるものの基盤です。
“悔い”とは何でしょうか。
悔いなき人生とは、死ぬまで、その日その日を懸命に生きることではないでしょうか。
直面する事象に対して、損しそうだから、傷つきたくないから、もっと楽な方へと、避けるばかりなら悔いが残ります。
いつ悔いを感じるか
それは人生の最後のとき
死の直前において
死の間際、もっときちんと対峙すべきであったと反省しても、もはや時は取り返せません。
だから、一日一日に対して、“反省”が必要なのです。
日々の反省で
気付いたことを悔い改める
それが積み重なるほど
悔いることが無くなる
~ 日常を丁寧に生きることが
そのまま芸術になる ~
<大熊玄(立教大学大学院准教授)
月刊『致知』より>
天、神と対話し
恥なき事を為し
日々悔い改めて
己を磨き続ける
自分の人生の次元を
高める“骨”でしょう