殿参りするも奉公人の疵なり。すべて御内縁、殿贔屓を持てば口がきけぬものなり。折角骨を折りて奉公しても、引きにて仕合せよきなどと後指さゝれ、奉公が無になるものなり。何の引きもなき奉公は仕よきものなりと。
(上司との縁故をたよるのはよくないことである。すべて縁故やひいきがあっては、ちゃんとした口をきくことはできぬ。せっかく苦労して勤め、引き立てられても、あれは縁故で目をかけられているのだなどといわれ、苦労のしがいもなくなるものである。何の引きもない勤めが、いちばんしやすいのだ。)
<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
縁故やコネは自らの人生の足かせになります。
訳文にあるように、周囲の人々が本人の努力や力量として認めないためです。
そんな縁故をわざわざ利用することは、自分の人生を貶める行為と言えます。
ところが、現代においてもまだまだあるようです。
なぜでしょう?
それは、“いま”
楽になりたい
安心したい
うれしい気持ちになりたい
という動機ではないでしょうか。
しかし、確かに“いま”は楽しくなるかもしれませんが、“未来”は決して明るくはなりません。
望ましい姿は
縁もゆかりもない場で
自分の五体・五感を発揮し
人生のあり方を世に問う生き方です
この挑戦こそが
自らを成長、成熟させる道です
世間で活躍できなかったからといって、親の会社に雇われる後継ぎというのも褒められるものではありません。
周囲の人々、社員の士気が下がることが最大の問題です。
そしてやがて本人も後悔します。
自分の能力を使い切り、最後まで粘り切ることをせず、ぬるま湯へ逃避したことを。
逆に、世間で活躍していた後継ぎが、傾きかけた実家の事業に還ってくるというのは全く話が違います。
あえて“火中の栗”を拾うという決死の覚悟、これは周囲の人々の心に火を灯すでしょう。
受け身の姿勢で縁故に頼るは
人物としてお話になりません
“いま”が良ければいいという浅薄な判断は
その見返りに自らに足枷を履かせます
特に若い時分の就職においては、用心が必要であり、慎重に対応すべきです。
実は私が社会人になるとき、亡父から紹介された会社がありました。
同級生が部長になっているということで、この日にここで面接を受けろと。
不安定で頼りない私に対する親心であることは間違いありません。
しかし、元々縁故とかコネを何となく嫌っていた私は、面接当日の朝に体の良い理由を付けて断ったのです。
昭和バブルの崩壊が実体経済を毀損した90年代後半、その会社が著名な大会社に吸収されたことを報道で知りました。
もし縁故を使っていたら
この状況を自分はどう捉えたか
自責と認識できたか
外部の環境を恨む輩に成り下がったか
『大学』の言葉を引用します。
「言悖りて出ずる者は、亦悖りて入る。
貨悖りて入る者は、亦悖りて出ず。」
(道理に反した言葉を吐くと、その仕返しに道理に反する暴言が返ってくる。
また、正当でない手段で財を得ると、やがて意に反してその財は出て行くものだ。~筆者意訳~)
<引用:「『大学』を素読する」伊與田覺著 致知出版社>
この世は
陽と陰、または作用と反作用で
成り立っています。
外部要因としての
“作用と反作用”に
振り回されては無益です
自分の生き様の中で
“陽と陰”を
うまく活用、操縦することです