道、一を生じ、一、二を生じ、二、三を生じ、三、萬物を生ず。萬物は陰を負いて陽を抱く。沖氣以て和と爲す。人の惡む所は唯だ孤寡不穀なり。而るに王公は以て稱となす。故に物或は之を損して益し、之を益して損す。人の教うる所は、亦た我義もて之を救う。強梁なる者は其の死を得ず。吾將に以て教えの父と爲らんとす。〔道生一章第四十二〕
(道が一を生じた。一はいわば太極である。一が二を生じた。二は天地、あるいは陰陽である。二が三を生じた。三は三才、天地人である。そこからして万物が生じた。
いわば万物は陰の気を背中に背負い、陽の気を胸に抱いて、そのうえに空虚なる気、それでもって調和を取っている。
さて、俗世間の人は親がない弧、それから連れ合いがない寡、そして不幸、そういったことを悪む。しかるに王者諸侯は、孤とか寡人、あるいは不穀、これを一人称に使っている。
つまり、そういうみずからを卑しとし、みずからをおとしめるという、そういう態度をよしとするがゆえである。
世間の者はこれをみずから減らそうとして、かえって益す。これを益そうとして、かえって損をする。そういうところがある。
俗世間の教師たちの教え方は、わしのいうことだけが正義だという。しかしこれは、いたずらに人に勝つことを求めるもので、かえって長続きしない。
わたしはそれに対してこういいたい。ひたすらに強がる者は、よい死に方をしないと。わたしはこういうことを教えることによって、あらゆる世間の教師のもう一つ上、あらゆる教師の父となろうとする。)
<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>
改めて考えてみても
やはり私たちは無から生じ
無に帰っていくのでしょう
確証は得られませんが
なぜ、生命だけが無から有へと生まれ出ものなのか。
日常で使う“物”は、何かと何かを組み合わせたり、削ったり接合したりと加工されてできています。
人間も、何かと何かの組み合わせによって生まれてきているのでしょうか。
父と母は出会いはしますが、生まれる子供は組み合わせではなく新たな生命です。
以前、人々の役に立つ言葉をメッセージとして毎朝携帯電話に送信しようという新規事業のアイデアを目にしました。
月々数百円の費用をいただくというものでしたが、日の目を見ることはありませんでした。
言葉は良くありませんが、たかだか月に数百円なので、きっと多くの人たちが申し込んでくれるだろうという目算でした。
いまで言うサブスクリプションの仕組みであり、顧客数が増えるほど儲かることが期待されたのです。
そのとき思ったものです。
たかだか数百円
人の財布から移動させること
それは本当に難しいことだと。
また
儲けようとすればするほど
初期の想いや志から
遠ざかっていくと。
そのような領域の考えから離れ、自らを無あるいは空にして、苦しんでいる人の境遇や心情を理解することで、初めて為すべきことが見えてくるのでしょう。
巷では
いたずらに相手に勝つこと
そんな方法論が散見されます。
相対的な意味で仮に勝つことができても
絶対的な意味での心の安らぎは得られません
また自らの人生の意味に近づくこともできません
無から有を生み出すことに尽力する
無から生じた私たちの使命なのでしょう