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COLUMNSブログ「論語と算盤」

言と行

2023年2月21日

さいひるぬ。のたまわく、きゅうぼくるべからず、ふんしょうるべからず。おいてかなんめん。子曰わく、始め吾人われひとけるや、ことばきて其のおこないしんず。いま吾人に於けるや、其の言を聽きて其の行をる。予に於てかこれあらたむ。〔公冶長第五〕

(宰予がだらしなく昼寝をしていた。

 先師が言われた。

「腐った木には彫刻することはできない。ぼろぼろの土の垣根にはうわぬりをしても駄目だ。そんな怠惰なお前をどうして責めようか。責めても仕方のないことだ。」

 先師は又言われた。

 「私は今までは、人の言葉を聞いてその人の行いを信じた。だが今は、その人の言葉を聞いても、その行いを見てから信じるようにしよう。お前によって人の見方を変えたからだよ。」)

<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

 

 未熟な人に高望みしていても、決して良い状況にはなりません。

 

その人自らが、自身の中身を充実させていかなければ、何も変わりはしないでしょう。

 

 

 

 宰予は弁舌の優れた人であったようです。

 

孔子は当初、宰予が発する言葉から、その行動まで信用したようですが、どうやら誤りであったことに気付いたわけです。

 

 

 

 ここで孔子は、宰予を責めるようなことはしません。

 

孔子は、自らの過ちとしたのです。

 

何事においても自省とし、自らを高める方への学びとしているのです。

 

人を責めたり他責にしたりしても、自らが得られることは一切無いのです。

 

 

 

 自分の子はかわいいものと言います。

 

すると、美点ばかりが目につき、悪いところが見えなくなります。

 

それと同様に、身近な人に対しては期待も混じって良く見ようとしがちです。

 

しかし、そういう身近な人や事象こそ、冷静に、客観的に見定めなければいけないのでしょう。

 

 

 

巧言令こうげんれいしょくすくなしじん

 

上っ面の知識を詰め込んで言葉巧みに語る

 

現代ではAIでさえやってのけます。

 

 

 

 学んだ知識をもとに、いかに生きるか、どう生き抜くか、日々の行動に影響を与えるまで考え抜くこと。

 

そして言葉と行動が一致するまでの覚悟が確立してこそ、本物に近づきます。

 

 

 

 

安岡正篤やすおかまさひろ師は、「識」を知識、見識、胆識たんしきと明確に分類されています。

 

まず「知識」とは、大脳皮質の作用にすぎぬ「識」であり、本を読むだけでも、学校へのらりくらり行っておるだけでもできるものとのこと。

 

次に「見識」とは、この人生、人間生活とはどういうものか、どういう風に生くべきであるかというような思慮、分別、判断とされます。

 

そして「胆識」とは、見識を具体化させる「識」であり、先哲せんてつ先賢せんけんの学問を本当の意味で行って得られる見識を実際生活の場に於いて練ること、そして実行する力、断行する力とされています。

 

 

 

また、現在名士と言われる人達はみな知識人なのだけれども、見識を持った人が少ない。

 

見識を持った人は時折りあるが、胆識の士に至ってはまことに寥々りょうりょうたるものであり、これが現代日本の大きな悩みの一つとのこと。

 

<出典:「安岡正篤一日一言」安岡正泰監修 致知出版社 八月十一日より>

 

 

 

令和の現代も同じではないでしょうか。

 

 

 

 

平澤興ひらさわこう師は、国際人、世界人としてのあり方について語っておられます。

 

「国際性を身につけるには、まず「なんじ自身を知れ」ということになりましょう。我々は正しい意味で日本人としての特性を持ち得てこそはじめて、尊敬される国際人たり得ると思うのであります。」

 

「世界的になるということは、何も大げさに変わったことをやるということではない。

 誰よりも我慢ができる人、誰よりも知識を求めてやまない人。そして苦しい時にも、悠然と笑顔で生きられる人。それが私は立派な世界人だと思うのであります。」

 

<出典:「平澤興一日一言」平澤興著 致知出版社 十一月十二日、十三日より>

 

 

 

常に自分と対峙して

自らに克ち

自分を本物の人物にしていかねばなりません。

 

 

薄っぺらな人生を送るのは

ご先祖、この世、全宇宙に

申し訳が立ちません。