権之丞殿へ話に、只今がその時、その時が只今なり。二つに合点してゐる故、その時の間に合はず。只今御前へ召出され、「これゝの儀を、そこにて云つて見よ。」と仰付けられ候時、多分迷惑なるべし。二つに合点して居る証拠なり。只今がその時と、一つにして置くといふは、終に御前にて物申し上ぐる奉公人にてはなけれども、奉公人となるからは、御前にても家老衆の前にても、公儀の御城にて公方様の御前にても、さつぱりと云つて済ます様に、寝間の隅にて言ひ習うて置く事なり。万事斯くの如きなり。准じて吟味すべし。槍を突く事も、公儀を勤むる事も同然なり。斯様にせり詰めて見れば、日頃の油断、今日の不覚悟、皆知らるゝかとなり。〔聞書第二 教訓〕
(常朝先生がその養子、権之丞殿に託されたことだが、「只今がその時」、「その時が只今」、つまり、いざという時と平常とは同じことである。これを別々に理解しているから、いざというときの間に合わないのである。たとえば、たった今、殿の御前に召し出されて「これこれのことについて述べてみよ」といわれれば、おそらく閉口するであろう。これが「只今」と「その時」を別々に考えている証拠である。
これを一つに理解するということは、たとえ、一生の間、殿の御前でものを申し上げるような身分ではないとわかっていても、奉公人となったからには、殿の前でも、家老衆の前でも、さては幕府や将軍家の御前に出ても、きっぱりとものを申し上げられるよう、ひごろからいい習っておくことをいうのである。この心がけはすべてに通ずるもので、武勇をあらわすことも、公務をつとめることも、みな同様である。
このようにつきつめて考えれば、われわれの日ごろの油断ぶりがすべて明らかになってくるではないか。)
<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
人が成長、発展、進化するのは
平常のなかに突如
非常が現れるからでしょう。
非常を乗り越えるために
平常を維持するために
人は考え、実行し、反省し、改善し
より良い世界を築き上げてきたのです。
平常が続くと人は非常を忘れます。
安閑としている中に非常が現れ、うろたえることになります。
そこで初めて、非常時を想定した備えが大切であると認識するのです。
しかしまた平常が続くと、非常時の備えという教訓は薄れてしまいます。
非常時を念頭において日々を過ごすことが大切なのは言うまでもありません。
「葉隠」が書かれた時代は、すでに戦で武功を表すような場面が無くなっていたそうです。
よって今日の言は、戦において発揮されたような献身、勇気、積極性といった美徳を日常の勤めの中に活かすことが狙いとのこと。
考えてみれば、各界で名を挙げた人たちは皆、非常時を想定して毎日に挑んできたことがわかります。
孔子も、山本常朝(葉隠の創作者)も、田代陣基(葉隠の筆録者)も、佐藤一斎も、二宮尊徳も、西郷隆盛も、渋沢栄一も、豊田佐吉も、松下幸之助も、本田宗一郎も、稲盛和夫も、スティーブ・ジョブズも・・・
究極の技術や作品は、非常時を乗り越えるための道具であり、また非常を新たな平常へ転換させる工夫でもあります。
穏やかな平常を維持するには
逆の状況としての非常を想定し
その非常が今であるよう身近に感じ
平常な日々において一つ一つの備えを
怠ることなく積み上げていくしかありません。
誰かが自然に守ってくれるわけではありません。
一人一人が守っていかねばならないのです。
愛する人を
家族を
隣人を
地域を
この国を
人類を