子、子貢に謂いて曰わく、女と回と孰れか愈れる。對えて曰わく、賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知る。子曰わく、如かざるなり。吾と女と如かざるなり。〔公冶長第五〕
(先師が子貢に話しかけられた。
「お前と顔回とどちらが勝れていると思うかね」
子貢が答えた。「私がどうして回と肩を並べることができましょうか。回は一を聞いて十(全体)を知りますが、私は一を聞いて、せいぜい二を知る程度でございます」
先師が言われた。
「回には及ばないね。実は私もお前と同じように及ばないと思っているよ」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
子貢は速やかに顔回の能力の高さを表現しています。
顔回は、孔子が最も期待した弟子(残念ながら早逝)ですが、子貢も負けず劣らず優秀な人物です。
人を正しく見定めることは容易ではありません。
特に、感情で判別してはならず、冷静に、客観的に捉えなければなりません。
感情で溺愛したり、憎悪したりすることは、災いを生み出しかねません。
“大学”にこう記されています。
「故に諺に之れ有り、曰わく、人は其の子の悪しきを知る莫く、其の苗の碩いなるを知る莫しと。」
(故に昔からの諺に、親はわが子の悪いことを知らない。農夫は自分の作った苗が他に比べて大きく育っているのを知らないとある。)
正しく見定めて
それを認め
必要ならば諫める
ところで、孔子の最後の言は、子貢の洞察力を認めているが故ではないかと思います。
つまり、子貢はひょっとすると謙遜しているかもしれませんが、その子貢に対して、私も同感だよと語ることは、子貢と肩を並べて、ともに顔回を正しく見定めている情景です。
そして孔子のこの言は、子貢の心の深い部分に到達するはずです。
孔子の度量の大きさも相まって、ゆるぎない強固な師弟関係であることがうかがえます。
本音で語り合った上での同意、これこそが共感でしょう。
身近な人を正しく見定めてみませんか。
大事なことは、感情に左右されない、美点凝視の観点です。
私の大事な人へ
あなたは、しっかりと、きちんと生きようとしています。
あなたは、将来に希望を持ち、自ら創り上げようとしています。
あなたは、人と和を図ろうとしています。
そしてあなたには、勇気と覚悟が備わっています。
一歩一歩、前を向いて、自分の道を歩んでいってください。