身を修し己を正して、君子の体を具うる共、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬えば、数十人の客不意に入り来んに、仮令何程饗応したく思う共、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄う可き様有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なり共、数に応じて賄わるる也。其れ故、平日の用意は肝腎ぞとて古語を書て賜りき。文は鉛槧に非る也、必ず事に処する之才有り。武は剣楯に非る也、必ず敵を料る之智有り。才智之在る所一焉而已。
(修行して心を正して、君子の心身を備えても、事にあたってその処理、臨機応変の対応のできない人は、ちょうど木でつくった人形と同じことである。
例えば数十人のお客が突然おしかけてきた場合、どんなに接待しようと思っても、食器や道具の準備ができていなければ、ただおろおろと心配するだけで、接待のしようもないであろう。いつも道具の準備があれば、たとえ何人であろうとも、数に応じて接待することができる。
だから、普段の準備が何よりも大事なことである、と(南洲翁は)古語を書いてくださった。
「学問というのはただ文筆の技術のことをいうのではなく、どんな事にあたっても切り抜ける判断力を身につけることである。
武道というものは剣や盾をうまく使いこなす技術をいうのではなく、どんな戦いにおいても敵を知ってこれに処する知恵を身につけることである。
こういう才能と知恵は、ただ心の中に一つにまとまっていなければならない」)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
備えあれば憂いなし
後半は、修練の真の目的が何かを教えてくれています。
学問 何のために学ぶのか
武道 何のために習得するのか
目的をしっかり見定めておかねばなりません。
私たち多くの日本人は、平和、平時に慣れすぎていないでしょうか。
地震や災害への備えは十分ですか
玄関や窓の鍵は閉まっていますか
可燃物は正しく管理していますか
他国からの侵略に対抗できますか
外国に比べれば、災害大国と言われる我が国の備えは高いレベルかもしれません。
ただし、大事なことは平均点以上であるということではなく、実際に起きたときに自分がきちんと対処できるかどうかです。
国防に関しても同じ
自分の身は自分で守る
これが強さであり、また一人一人の責務でもあります。
誰かが手を差し伸べてくれるだろうと安閑としている人に、誰が手助けしようと思うでしょう。
学問や武道についても認識を深めなければなりません。
偏差値を高めるために勉強しようとするのなら、その時点ですでに、誤った道に踏み込んでいます。
偏差値が高まるほど、さらに上位をめざそうという動機が生じるでしょう。
西郷さんの言う、「判断力を身に付ける」という学問の本質、
真の目的からどんどん外れていくことになります。
武道でも、相手を負かすために自分の技量を上げるのなら、競技会では良いかもしれませんが、実戦では役に立たないでしょう。
相手が銃を持っていたら・・・
実戦では、敵を知らねば戦えません
仕事で使うマニュアルは本質を捉えていますか
品質の向上やお客様への配慮など
真の目的に焦点が当たっていますか
自分たちの都合に焦点が当たっていませんか
もしそうなら
その仕事は早晩朽ち果てるでしょう。
習得、修練、修身こそが備え
生きようとするのなら
本質を捉えた備えが必要
今生の限り
続けなければなりません