大道は汎として其れ左右すべし。萬物之を恃みて以て生じて辭せず。功成りて居らず。萬物に衣被して主と爲らず。故に常に無欲にして小と名づくべし。萬物焉に歸して主を知らず。大と名づくべし。是を以て聖人は能く其の大を成すなり。其の自ら大とせざるを以て、故に能く其の大を成す。〔大道汎兮章第三十四〕
(偉大なる道はふわふわと浮かんで、左にも右にも行ける。万物はこの道によって生ずるのであるが、道はそれを拒むことはない。
万物を形成するという、そういう偉大な功績を成し遂げながら、道はその功績を自認しない、誇らない。万物が道のおかげをこうむりながら、道自体は、そういう万物の主体という意識は持たない。
だから、道というものは常に無欲である。みずからを小さいものと、そういうふうに考えている。これを小と名づけてもよい。
万物は、この道に帰着する。つまり、万物は道を自分の主と仰ぐのであるが、しかし道は、自分が主であることを意識しない。これこそ、真に偉大なるものといえよう。
だから聖人もまた、みずからを小にする、みずからへりくだることによって、その偉大さを成し遂げるのである。みずからを大としない、だから逆説的に真に偉大なものとなり得るのである。)
<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>
役立つことをしても
それは天の計らいであるとして
自慢などせず静かに居る
謙虚な振る舞いでしょうか。
いや、謙虚と称される状態のうちは不十分なのでしょう。
その振る舞いが自然であり、誰も気づかないくらいになって初めて聖人、真に偉大なものになり得るのでしょう。
世が喜ぶことを行いその場を去る
誰が行ったか誰も気づかない
それが繰り返されることで
やがて世の中は笑顔で満たされる
これが “道” の働き
道元禅師は、徳が外にあらわれることについて教えます。
曰く
「徳が外にあらわれるには三段階ある。
第一には、あの人は、仏道修行をしている人なのだと人に知られることである。
第二には、その人が行っているその道を慕って、ついてくる人が出てくることである。
第三には、その人たちとその道を一緒に学び、同じように修行するようになることである。」
〔四月十二日〕
<出典:「道元一日一言」大谷哲夫編 致知出版社>
こんなふうに徳が外に表れてくると、
人々の人生修養に対する意識も高まります。
ただし、この域に至るには、より深い思考が必要でしょう。
「世間の毀誉褒貶が触れ得ないだけの深いものを自分に持たなければならぬ。」
〔二月二十三日〕
<出典:「安岡正篤一日一言」安岡正泰著 致知出版社>
※毀誉褒貶:ほめたりけなしたりすること
深く より深く さらに深く