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COLUMNSブログ「論語と算盤」

壽に至る

2022年9月9日

人を知る者はなり。自ら知る者はめいなり。人に勝つ者は力あり。自ら勝つ者は強し。るを知る者は富む。強行する者はこころざしあり。ところうしなわせざる者はひさし。死してほろびざる者はいのちながし。〔知人者智章第三十三〕

(人を知る、人を見分ける、人を理解する。これは確かに知恵ではある。知恵がなければできないだろう。

 しかしながら、自己を知る、自己を理解するということ、これはいちだんと奥深い知恵である。

 他人に勝つ、それは確かに力持ちではあろう、しかしながら、自己に打ち勝つ者は、これはもっとも強い、真の強さである。

 足ることを知る者、これは常に余りがある。あり余る富である。ほんとうに力強く進んでゆくことのできる者、これは自分の血気に打ち勝つ、意志の力を有するものである。

 心の落ち着きどころを失わない者、これはいつまでも泰然として変わることがない。

 肉体は死んでも、自分の本質はいつまでも亡びない、それこそが長寿というものである。)

<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>

 

 

 

 

その人はどういう人なのか考えることがあります。

しかしそれは自分の思いをもとにした狭い知恵に留まります。

 

そんなことよりも、自分を知ること、理解することの方が重要です。

なかなか困難ことですが、しかしこれこそ大いなる知恵であるはず。

 

 

力比べで勝つこと、そういう表面的な強さよりも、己に克ち、己を律することが本当の強さであることに疑いはありません。

 

ユダヤ人収容所での体験を「夜と霧」で著したヴィクトール・E・フランクルは、まさに己に打ち克ち、生死の境を生き延び、そして生還しました。

 

ナチスに迎合し、その手下として同胞のユダヤ人をあしにする人たちもいたようです。

それを私たちは批判できません。

死に直面したとき、ギリギリの中で生き延びるために選んだ手段です。

平和に生きていれば、そんな残酷なことはしなかったであろう人たちなのです。

 

ただ、己を知り、理解していたのか、己に打ち克ち、律していたのか、疑問に残りはします。

綺麗ごとを語るつもりはありません。

ただ、願わくは、いさぎよい姿勢でいたいのです。

 

 

精神的な極限状態では

力持ちであることなどは役に立ちません。

真の強さのみが道を切り拓きます。

 

人として真の強さに至りたい。

自己を知ってこそ体得できる知恵が必要です。

 

 

 

足るを知る

これについては感じることがあります。

 

今まで生きてきたことがありがたい

今生きている

それで充分

 

この事実に手を合わせずにはいられません。

 

 

そしてこの気持ちは、残りの人生は天からの贈り物として、世や人のために役立てようという気持ちにさせてくれます。

 

 

 

心の落ち着きどころ

 

凛とした静けさ

独りを慎む

古典に思いをはせる

 

 

 

最後の文章は、原文注釈者のりんいつによれば、孔子の「朝に道を聞けば夕に死すとも可なり」(論語)に通じる意味とのこと。

 

 

 

今日の言葉は、人が生きていくために必要な教訓そのものです。

 

自己との対峙を怠らず 

追求し続けることです。