子曰わく、古者言を之れ出さざるは、躬の逮ばざるを恥ずればなり。
(先師が言われた。「昔の人々が、軽々しく口にしなかったのは、実行がなかなかともなわないことを恥じたからである」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
実行できないことを口にするのは恥ずかしいこと
武士に通ずる心構えと感じます。
実行するためには覚悟が必要です。
それも、信念に基づく覚悟です。
ではその信念や覚悟の源泉とは。
それはその人自身の人間学。
損得勘定から信念が生まれることはありません。
生まれたような気がしても、それはすぐに消滅する弱々しい思いつきです。
人間学を学ぶには、なにより古典に親しむことでしょう。
古典に触れ、自分で考えて、自分の信念や生き方を形作っていくことで、言動に対する覚悟ができてきます。
決して堅苦しく考えることはありません。
古典の中にある一つ一つの事象について、自分に置き換え、自分と対話し、自分で考え、自分の言動に反映させていくのです。
人間学は幼いころから触れていた方が良いと思います。
私にはそういう機会が無かったのですが、論語を素読する幼稚園はあります。
そこの子どもたちは、他と変わらず伸びやかに過ごしているようです。
しかし、そんな普通の子と変わらないように見える彼ら彼女らには、人間学や道徳心の種がしっかりと根付いています。
なぜなら、素読には、目と耳と口さらには皮膚から吸収する、自分の体に染みこませる、そんな効力があるからです。
学校教育で学ぶ時務学の基本要素、これはこれで大事なものですが、受験戦争の過熱化など、そのいびつさは拭えません。
親も生徒も偏差値重視の損得勘定に染まり切っています。
だから、現実社会に出たときに迷いが多くなるのです。
覇気、勇気、パワーの感じられる若者が少なくなりました。
目立たないように振る舞い、他者との協調を最優先し、心に火が燃えたぎるような経験なく終える一生を望んでいるかのよう。
なぜか・・・
信念が持てないからでしょう。
自らの意思決定は、学校で学んできた弱々しい損得勘定に頼るしかない。
家庭で人間学を学ぶ機会はない。
だからすぐにポキンと折れる。
これではあまりにも可哀そうです。
自ら学べば良いのでしょうが、情報を得る機会が少なくなっています。
インターネットは検索されやすい語句しか出現しません。
人目に付くような所に宝物、金の鉱脈はないのです。
情報過多の現代
情報の低価値化の時代
金の鉱脈はまぎれもない人間の知恵
それは数千年語り継がれた先人たちの知恵
いかに生きるか
なぜ生きるか
そんな知恵の宝庫
それが東洋古典
今こそ、学びの中心に据えるときです。