一世帯構ふるがわろきなり。精を出して見解などあれば、早済まして居る故早違ふなり。尤も精を出して先づ種子は確かに握つて、偖それが熟する様にと修行する事なり。一生止むる事はならず。見付けたる分に、その位に叶ふ事は思ひもよらず、只これも非なりゝと思うて、何としたらば道に叶ふべきやと一生探促し、心を守りて打ち置く事なく、修行仕るべきなり。この内に即ち道はあるなりと。〔聞書第一 教訓〕
(固定した見識を持つというのはよいことではない。一応の努力をして、一見識ができると、もうそれで満足してしまうのが、そもそもの誤りである。努力して、まずその出発点だけはしっかりと身につけ、あとはそれが実を結ぶようにと一生かかって修行することである。自分が見出した道によって、これで十分と考えることは思いもよらぬことであり、あれでも不十分、これでもまだ不満足と、思い思って、一生の間、どうしたら真実の道に達することができようかと修行しなければならない。道というものは、ほかならぬ、この修業の中にこそ見出されるものなのである。)
<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
最近、感動しましたか
年を重ねると感動しなくなると言われます。
感動がないのは
感受性や情緒が進化しなくなったからでしょうか
やがて腐敗しそうです。
「湯の盤の銘に曰く、苟に日に新た
日日に新たに、又日に新たならんと。」
<出典:「『大学』を素読する」伊與田覺著 致知出版社>
一生をかけて自己革新に取り組むことは、楽しいことだと思います。
疎ましいと思うのは、本当の楽しみを感じていないからかもしれません。
世間で作られた、まやかしの楽しさに満足してしまっていては、哀れです。
自己革新をいかに行うか。
自分が納得できる目標、やるべきことを実行するのが良いでしょう。
大事なことは、自分が納得すること、です。
世間で言われる社会的な意義などという範疇に、無理に自分を寄せる必要はありません。
また、所属する会社や組織の意向に沿うような意識からも離れましょう。
「自らの考え」をもとに、「自らが合意できる」目標や取り組みを見出すことです。
前述した東洋古典「大学」で示されているように、日々心を新たにしていかねばならないのです。
前例踏襲には進歩がない、いやそれどころか、弊害にもなりかねません。
工夫がないのは、すなわち停滞です。
自己変革の起点は“憤”です。
多くの人は、世の中に対して勝手に“憤”を感じがちです。
しかし、世の現状は他ならぬ自分の生き写しです。
問うべき矢印は、自分に向けねばなりません。
自分に対する“憤”
これこそがエネルギー
宇宙の全要素が凝縮したビッグバン前の塊
そんなエネルギー
138億年前に誕生した宇宙は、いまでも拡大し、成長し続ける。
感動が無く、“憤”を感じられない人は可哀そうです。
しかし、自ら見い出そうとしないなら、それはその人の愚かさかもしれません。
教えてほしいという人に教えても、必ず身に付きません。
真剣に生きる人は、必ず自分で見つけて習得します。
私たちは必ず死ぬ
改めて問おう
これは私の生き方か