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COLUMNSブログ「論語と算盤」

本物とは

2021年6月9日

のたまわく、ひとにしてじんならずんば、れい如何いかにせん。人にして仁ならずんば、がくを如何にせん。

(人にもし仁の心がなかったら、形式的な礼がなんになろう。

 又人にもし仁の心がなかったら、整った音楽を奏してもなんになろう。)

<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

 「仁」について、孔子は定義していないことを以前コメントしました。

そうは言うものの調べてみたところ、土田健次郎著「儒教入門」(東京大学出版会)によれば、「仁」とは、もとは外見の見栄えの良さのことでしたが、それを孔子が内面化したとのことです。

具体的には、「自分の心内の欲求を自覚し、それを基にして他者の心中を思いやること」とのこと。

 

 

 今日の言葉をよりかみ砕くと、「礼」を行うにしても、その「礼」の意図や背景と、「礼」を行う人の「心」が一致していないのであれば、やっても何の意味もないということになります。

 

後段についても、演奏自体はリズムや音程がきちんと一致し調和していても、演奏者の「心」が、その音楽が表す情景や想いを共有していないのなら価値はないということです。

 

 

 ちなみに「礼」について、土田健次郎氏の上著によると、次の項目が最重要条件になるとされています。聖人(王者)が規定したものであること、内容が天下に一律であること、万人にその内容が行き渡ること、忠孝思想と背馳(はいち)しないこと、以上の4つです。

 

 

 実は若いころ、楽器を一所懸命に練習して、何とかそれで生活できないものかと夢を持っていました。しかし20歳であきらめ、趣味として位置づけることとしました。

振り返ってみると、私の演奏には「仁」が無かったと思います。形や技術にばかり目が行き、ただ一つの音が発する響き、それが生み出す情景について、大切に扱う気持ちが無かったと感じています。

 

 今でも時折弾いていますが、そのことに今更ながら気づかされます。どうやら、「仏作って魂入れず」を実践していたようです。

 

 

 この経験に関して思うことがあります。それは、よく言われる言葉ですが、「本物に触れること」と「良き師に就くこと」が極めて大事だということです。

本物(作品)に触れ、本物の道具(楽器など)を用い、そして「仁」ある師に就くことで、その道を正しく進めるものだと感じます。

 

 学生時代にそのような友人がおりました。彼はプロ演奏家として、現在も第一線で活躍しています。上記のような環境に自ら身を投入していたと感じていますし、今でもその領域にいるように映ります。

個人的な感想として、正道を行く人物に触れられた経験は、本当にありがたく思います。

 

 

長い年月、万人に道を示し続けている本物としての「古典」、

 

それを実践する「仁」を持つ人物を「師」とし、

 

正しい道を正しく進む「良き生き方」を追求したいと思います。