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COLUMNSブログ「論語と算盤」

偽りの善、偽りの悪

2021年6月3日

夫天に善悪無し、故に稲とはぐさとを分たず。たねある者は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ。人道はその天理にしたがふといへども、其内に各区別をなし、ひえ莠を悪とし、米麦を善とするが如き、皆人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす。ここいたりては天理と異なり。如何となれば、人道は人の立るところなれば也。

(天に善悪はない。

 だから稲と雑草を区別せず、種あるものをみな生育させ、生気のあるものをすべて発生させる。

 ところが、人道はその天理にしたがいながらも、善悪の区別をつける。

 例えば稗や雑草を悪とし、米麦を善とするように、

すべて人間にとって便利なものを善とし、不便なものを悪とする。

 これが人道と天理との相違である。その理由は、人道はあくまでも人が立てた道であるからだ。)

<出典:「二宮翁夜話」奈良本辰也、左方郁子編訳 徳間書店>

 

 

善悪についての話し合いを、実りあるものにできますか。

 

 自分にとって便利なものや都合に沿うものを善とし、逆に不都合なものを悪とする、そんなレベルで留まってしまっています。

 

 夏の暑さ、冬の寒さ、雨の多さ、風の強さ、肌の違い、言葉の違い、国の違い、地域の違い、価値観の違い、さらには学校のいじめ問題への対処など、何かしらの問題が生じたとき、私たちは自分の都合を優先して解決を図ろうとします。

 

その裏には、善悪の尺度を用いているというような自負さえ見え隠れします。

 

こんな風に善悪を割り切って考えると、その場の感覚では得体の知れない納得感を得られるかもしれません。しかし長い目で見ると、恐らく自らの生きる領域を狭めてしまいます。

 

 

人間社会の中でぎすぎす生きていると、狭い了見の世界に閉じ込められてしまいます。

 

 

 二宮金次郎は続けて、「政(まつりごと)を敷き、教えを立て、刑法を定め、礼儀作法を制し、やかましくうるさく世話をやく。そうして初めて人道が立つのである。だから、人道を天理自然の道と思うのは、大きな誤りである。よく考えなければならない。」としています。

 

 

 雑草を悪とし、農薬をばらまくことで農業の表面的な生産性は向上したのでしょうが、その弊害は長く議論されてきています。他方、農薬を使わず、雑草と付き合いながら生育させた農産物には年々関心が高まってきています。

 

 職場や学校、地域単位の集まりでさえ、窮屈しながら他者に合わせるよりも、個々人の特徴や違いを活かしあいながら運営する方が、きっと良い結果や成果を生み出すでしょう。

 

 

ときには大自然とじっくり対峙する時間が必要です。

天の道に、どのような働きがあるかを考え、その教えを学ぶために。

 

 

命の声、水の音、風の香り、光、影、静寂・・・

 

五感を研ぎ澄ませ、味わい愛で、恐れる。

 

閉塞感のある現代、大自然の営みを再認識して、生きる道を広げていきましょう。