子曰わく、賢を見ては齊しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みるなり。〔里仁第四〕
(先師が言われた。
「知徳兼備の優れた人を見たら、自分もそのようになりたいと思い、つまらない人を見たら、自分はどうかと内省する」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
幼いころ、色々と憧れる人物がいました。
自分も大きくなったらそうなりたいと感じさせてくれる人たち。
年齢を重ねると、いま自分はどうなのかと考えることしきりです。
あのころ、なりたかった自分になれているのか、近づいているのか。
幼いころ、へまをした人をあざ笑ったこともあります。
その人の気持ちや背景などお構いなしに、ただその現象を面白がる。
年齢を重ねると、へまをする人を見ても無視できません。
自分はどうなのか、大丈夫なのかと。
いくら憧れても、その人にはなれません。
過去を振り返れば、当たり前であることに気づきます。
偉大な人、業績を残した人、世に貢献した人など、世間に良く知られた人物に、今まで同じ人はいなかったのですから。
みな、自分だけの道を歩んできた結果、そう「成った」のです。
独自の道を歩む
憧れは憧れでしかありません。
憧れとは、表面だけを見た関心であり、歓心です。
見る人が勝手に創り上げた妄想とも言えます。
ただ、憧れたその人に近づこうとすることは可能です。
その妄想のイメージを心に焼き付け
自分なりのやり方でそのイメージに近づいていけば良い。
そして、いま自分は大丈夫なのかと自反、自省する。
あるべきイメージに対し
自分はへまをし続けていないかと
すでに遅いということはありません。
死ぬまで歩み続けるしかないのですから。
そして可能性は無限です。
「凡人はもちろん
天才でも百四十億の神経細胞の全部を完全には使っておりません」
〔二月十一日〕
<出典:「平澤興一日一言」平澤興著 致知出版社>
人間の能力で開花していない領域
まだまだ山ほどあるようですよ