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COLUMNSブログ「論語と算盤」

成る

2022年7月5日

のたまわく、けんてはひとしからんことをおもい、けんを見てはうちみずかかえりみるなり。〔里仁第四〕

(先師が言われた。

 「知徳兼備の優れた人を見たら、自分もそのようになりたいと思い、つまらない人を見たら、自分はどうかと内省する」)

<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

 

幼いころ、色々と憧れる人物がいました。

自分も大きくなったらそうなりたいと感じさせてくれる人たち。

年齢を重ねると、いま自分はどうなのかと考えることしきりです。

あのころ、なりたかった自分になれているのか、近づいているのか。

 

幼いころ、へまをした人をあざ笑ったこともあります。

その人の気持ちや背景などお構いなしに、ただその現象を面白がる。

年齢を重ねると、へまをする人を見ても無視できません。

自分はどうなのか、大丈夫なのかと。

 

 

いくら憧れても、その人にはなれません。

過去を振り返れば、当たり前であることに気づきます。

偉大な人、業績を残した人、世に貢献した人など、世間に良く知られた人物に、今まで同じ人はいなかったのですから。

みな、自分だけの道を歩んできた結果、そう「成った」のです。

 

 

独自の道を歩む

 

 

 

 

憧れは憧れでしかありません。

憧れとは、表面だけを見た関心であり、歓心です。

見る人が勝手に創り上げた妄想とも言えます。

 

 

 

ただ、憧れたその人に近づこうとすることは可能です。

その妄想のイメージを心に焼き付け

自分なりのやり方でそのイメージに近づいていけば良い。

そして、いま自分は大丈夫なのかと自反、自省する。

 

あるべきイメージに対し

自分はへまをし続けていないかと

 

 

 

すでに遅いということはありません。

死ぬまで歩み続けるしかないのですから。

 

 

そして可能性は無限です。

 

 

 「凡人はもちろん

天才でも百四十億の神経細胞の全部を完全には使っておりません」

〔二月十一日〕

 

<出典:「平澤興一日一言」平澤興著 致知出版社>

 

 

 

人間の能力で開花していない領域

 

まだまだ山ほどあるようですよ