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COLUMNSブログ「論語と算盤」

慎み深く丁寧に生きる

2022年5月27日

くものは轍迹てっせきし。善く言うものはてき無し。善くはかるものはちゅうさくを用いず。善く閉ずるものは關楗かんけん無くしてひらべからず。善く結ぶものはじょうやく無くしてく可らず。これもって聖人は常に善く人を救う。故に人をつること無し。常に善く物を救う。故に物を棄つること無し。是をしゅうめいう。故に善人は不善人の。不善人は善人のたすけの師を貴ばず、その資を愛せざるときは、智ありといえども大いに迷う。是をようみょうと謂う。〔善行無轍迹章第二十七〕

(ほんとうに善く道を走るものは、わだちの跡を残さない。ほんとうに善くものをいうものは、言葉にきずがない。人からそしられる、あげ足をとられるような、そういったきずを残さない。

 ほんとうに善く計算のできる人は、数とりの棒を用いることはない。ほんとうによくじょうずに門を閉ざした状態というのは、かんぬきがなくてもこれを開くことができない。ほんとうにじょうずに結んだ結び目というものは、縄で縛ることはしなくても、これをほどくことはできない。

 こういうほんとうにじょうずなもの、ほんとうにすぐれたものというのは跡を残さない。痕跡を残さない。

 聖人は、いつもよく人を救う。あらゆる人を救う。ある人を拾いあげ、ある人を棄てるということはない。棄てられるべき人は一人もいない。

 聖人は、いつもよくあらゆるものを救う。だから、見捨てられるべきものは一つもない。

 この聖人の在り方、塵の中に衆人と同じところにわが身を置く、これを隠された明るさ、隠れた知恵と呼ぶ。

 だから、善人は不善人にとっての師匠である。逆に不善人はまた、その存在によってこそ、善人というものが存在しうるという意味で、善人にとっての助けとなる。

 もしも特定の人を見捨て、特定のものを軽蔑するという、そういう差別をするならば、それは自分の師匠を貴ばない、自分の助けになるものを愛さないことになる。そのような差別を伴うならば、自分では知恵者だといいながら、これこそは迷いの大きなものである。

 逆に、そういった差別感を忘れ、あらゆるものを平等に救いあげる、そういった知恵があれば、これを要妙、肝心かなめの微妙な道というのである。)

<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>

 

 

 

善人は、衆人と同じところ身を置いて、

 

あらゆる人、あらゆるものを救う。

 

 

隠れた明るさ、隠れた知恵

差別や軽蔑などなく

あらゆるものを平等に救う

 

 

聖人、善人は、そうであることを外に示しません。

 

 

こう同塵どうじん

 

優れた人物ほど、自らを際立たせようなどとはせず、

自らの知恵や徳を示しません。

 

その逆のような行為をする人ほど、不善人となります。

 

 

 

しかしまた、不善人がいてこそ、善人という存在が際立ちます。

 

  そしてまた、善人は不善人の手本となります。

 

 

相反する二つ、両者があってこそ各々がある。

 

陽と陰、男と女、生と死、楽と苦、希望と絶望・・・

 

 

これこそ天が創造したこの世の姿なのでしょう。

 

 

 

 

人生にはあらゆる局面が訪れますが

それらに一喜一憂することなく

慎み深く

あらゆる人ものに手を差し伸べて

 

この時代に生きる者として

ともに一度きりの人生を

ていねいに生きていきましょう