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COLUMNSブログ「論語と算盤」

猿回しの猿にならぬよう

2022年5月17日

げいたすくるとふは、ほうさむらいの事なり。とうの侍は、芸は身をほろぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり、侍にあらず。何某なにがしは侍なりといはるゝ様に心掛くべき事なり。少しにても芸能あるは侍の害になる事と得心とくしんしたる時、諸芸しょげい共に用に立つなり。このあたりこころえるべき事なり。〔聞書第一 教訓〕

(芸-ここでは広く才能、技芸をいう-は身を助けるなどというのは他国の侍のことである。ご当家の侍にあっては芸とは身を亡ぼすものである。一芸を身につけたものは芸者-技術者-であって侍ではない。誰々は芸者などといわれるのは恥辱と心得、侍と呼ばれるように心がけよ。多少なりとも技能の心得のあるものは、このような心得は侍の道にとって、むしろ妨げになるのだと、よく思いこまねばならない。そうしたとき、はじめて侍として、その才能、技能を活用することができるのである。この点を充分、心得ておかねばならぬ。)

<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

 

 

久しぶりに〔聞書第一 教訓〕から取り上げました。

 

 

解説によると、

  才能や技芸というものは両刃の剣であり

    それを用いる者の心がけや立場によって正反対の結果になる

 

つまり、才能や技能を持っていることに自足して

  これを何のために用いるかという

    自らの立場の確立をなおざりにするならば

      必ずやその本分を見失い

        才能や技芸を悪用されて

          身の破滅を招くであろうと教えている

                      とのことです。

 

 

侍として生きる者にとって

  特別な才能や技芸に溺れるようなことがあってはならず

    周囲からはやし立てられて迎合するかの如き姿は、

      確かに恥辱となるのでしょう。

 

 

 

この教えは、侍にのみ当てはまることではありません。

 

自らの立場、自分の生き方を確立し

 

その上で、才能や技芸を道具のように活用するという意識が大切です。

 

 

 

 

しかし、この教えが危惧するところの危険性は、

日々、徐々に高まっているように感じます。

 

 

ちょっとした才能や技芸を褒められただけで

感情に流され、翻弄され、溺れてしまう

 

自らの生き方の確立には考えも及ばず

迷いの道に入り込んでしまう

 

気がつけば「猿回しの猿」になっている姿

 

 

こんな愚は演じたくないものです。

 

 

 

 

さて、現代の人間は本当に迷いが多いと思います。

    一時的、即時的な刺激や興奮などの快楽が多く

大所高所に立ったものの見方、長期的な思考が薄れていると感じます。

 

 

古典に親しんでいくと

古典にある生き方こそが、実は最も素直で、最も道理に沿っており

自分に自信が持て、生きて行く上での悩みも少なく

日々を明るく前向きに過ごせそうな

そんな気がしてなりません。

 

 

昔の人の考え方や生き方は、封建的で堅苦しいものだと捉えられがちですが

    実は現代社会の方が、人の一生、生き方を

悩ましく、狭苦しいものにしているのではないでしょうか。

 

 

 

「最も身近で、しかも自己にも仕事にも、いちばん幸福なことは、

自己の仕事に打ちこむことではなかろうか。

 現在では、仕事は生きるための方便で、人生の目的を仕事以外に

おいておるように思われる人も少なくはないが、

それでは能率もあがらず、疲労も大きい。」

<出典:「平澤興一日一言」平澤興著 致知出版社>

 

 

 

自己の確立に取り組まず、ただ何となく仕事をしているだけなら

まさに日々を消費しているだけのこと

 

 

それは結局、能率を上げられず、成果もあげられず

 

仕事場の環境や人間関係も良くすることができず

 

自分にとっても、ストレスや疲れが多くなるだけ

 

 

 

あらためて、自分の一生の中の、大切な一日一日を見つめ直したいものです。